1955年、成瀬巳喜男は『浮雲』を制作した。前年に『山の音』『晩菊』が、さらにその前年に『夫婦』『妻』『あにいもうと』が、また1956年に『驟雨』『妻の心』『流れる』が撮られる。1955年を中心に戦後成瀬を代表する作品群が目白押しである。そしてその1955年、成瀬は『浮雲』に集中したのだろう、多作の監督としては珍しく、同年の作品にはオムニバス形式の『くちづけ』第3話があるだけだ。
その『くちづけ』が初めてDVD化され、今月東宝からリリースされた。
https://www.toho.co.jp/dvd/item/html/TDV/TDV31308D.html
第1話「くちづけ」(筧正典監督、青山京子主演)、第2話「霧の中の少女」(鈴木英夫監督、司葉子主演)、第3話「女同士」(成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演)からなる。
冒頭に 3話をまとめたクレジットタイトルがあり、主演者や監督の名は次のように同一画面に並んで登場する。エピソードごとのタイトルはこの時点では表示されず、物語の交代時に挿入される。
『くちづけ』が総題になっているものの、キスシーンを含むのは第1話だけだ。3つのエピソードに共通する登場人物はおらず、オムニバスとして3話がまとめられる理由は明示されない。考えられることのひとつは、恋の芽生え(1話)から婚約(2話)を経て結婚生活(3話)へという展開。だが、これはどうでもいい。
各エピソードは異なる監督によって分担されている一方、カメラ(山崎一雄)、美術(中古智)、音楽(斎藤一郎)などのスタッフは同一で、演者、ストーリー、ロケ地、セットはそれぞれ異なっていても、一編の作品を見るようである。それも一編の成瀬作品を。
第1話の大学キャンパスや多摩川を行くショット、第2話の商店店頭や室内のショット、第3話の東京郊外の医院や通りのショットなど、第3話は成瀬監督だから当たり前だが、既視感がある。
なかでも第2話「霧の中の少女」がよい。東宝はこのところ積極的に、成瀬巳喜男や川島雄三らによるめったに劇場で見ることのできなかった作品を初DVD化している。今月は『くちづけ』の他に成瀬『浦島太郎の後裔』(1946)と『妻の心』(1956)、さらに鈴木英夫監督、司葉子主演の『その場所に女ありて』(1962)をリリースしている。「霧の中の少女」は同じ鈴木英夫と司葉子の組み合わせ、ただし『その場所に女ありて』に先立つことおよそ7年という興味深い作品である。
銀座を舞台に広告代理店の辣腕エージェントたちの “しのぎ” を描く『その場所に女ありて』とはまったく異なり、「霧の中の少女」の舞台は会津の質朴で温かな半農半商一家のすまい。夏休みである。東京の大学に通っている長女(司葉子)は帰省中だ。妹(中原ひとみ)と小さい弟がいる。父(藤原釜足)は母(清川虹子)の尻に敷かれていて、祖母(飯田蝶子)は藤原の実母なのにむしろ嫁の清川と息が合っている。一家の夏の生活の描写は、彼らが小規模にやっている雑貨屋の店先やその向こうに見える通りの様子などを含めて、成瀬作品に出てくるそれである。肯定的な(粗暴な兄は不在で、自然光のもとでのびのびしている)「あねいもうと」だと言ったらわかってもらえるかもしれない。
『あにいもうと』(1953)。戦後成瀬作品の中ではロケーション撮影の占める割合が大きく、商店街から川べりの農道を経て浦辺粂子がやっている半露天の茶店へ続く行程を、様々なシチュエーションと人物の組み合わせで撮り分ける変奏曲的な撮影、および庭と通りに向かって大きく開け放たれた田舎家の座敷内を対角線上に深く捉える撮影(そこであにといもうとの乱闘が起こる)によって特徴づけられる。「霧の中の少女」。そのロケーション撮影も室内撮影も『あにいもうと』ほど凝ったものではないが、ある時は畑仕事中の、ある時は居間での、清川と藤原の微笑ましいやりとりや飯田蝶子のひょうきんなふるまいを捉えたショットは成瀬調である。「霧の中の少女」にさいわい粗暴な兄はいないものの、霧の中で姉を追う中原ひとみの「おねーちゃーん」の声は、『あにいもうと』の日暮れの通りに響く久我美子の「おねーちゃーん」を彷彿させる。ただし中原ひとみの方はよりからっとして肯定的である。
司葉子もみずみずしい(本作の最初のショットでは弟と水遊びをしていて、ホットパンツ(のようなもの)をはいている)。しかし、「霧の中の少女」が中原ひとみを指しているだけのことはあり、これは彼女のための映画である。
物語の一部とショットのつなぎ方を紹介しようかと思って書き始めたが、長くなってきたのでやめる。おもしろく、映画史的に重要な作品なので、ぜひ多くの人に見てほしい。なお蛇足ながら中原ひとみの愛称がバンビであったことを書き添えておく。