ヘンデル『シッラ』

ヘンデル『シッラ Silla』(10月29日、神奈川県立音楽堂)の公演の素晴らしさについて述べるついでに、作品とも演奏とも無関係な雑感を書き留めておく。読み流してください。

シッラは共和制末期ローマの独裁官スッラのイタリア語表記であり、本作品は、ロンドンに移って間もないヘンデルが『リナルド』の少し後に書いたと考えられているイタリア・オペラだ(どのような公演のために書かれ、いつどこで上演されたか、正確なことはわかっていない)。魔法の効果や戦争の進行などを描写する器楽のシンフォニアを含み、動と静の劇的な交替を特徴とする『リナルド』、対照的に、一貫して優雅で平穏な情調を湛える『忠実な羊飼い(1712年初版)』(同じくロンドン時代初期)との比較で『シッラ』の特徴を言うならば、歌を伴うコンチェルト・グロッソ集であり、イタリア語によるカンタータの美質を編集したかのような作品である。言い換えれば、初期ヘンデルの音楽の魅力が閉じ込められたアルバムだ。しかも3幕がそれぞれ40分程度と簡潔で、聴き入っているうちあっと言う間に終わってしまう。中心をなすのは第2幕、レピド(シッラに対立する護民官)とフラヴィア(その妻)のデュエットであり、この幕を閉じるメテッラ(シッラの妻でありながら、夫の圧政と暴虐に反対して共和国を守ろうとする)のアリアである。ダ・カーポ・アリアにありがちな冗長さは皆無。

今回神奈川県立音楽堂でのプロダクションは、ファビオ・ビオンディ指揮のエウローパ・ガランテによるもの(舞台演出は彌勒忠史)。ソリストは以下。
ソニア・プリナ シッラ。
スンヘ・イム メテッラ(シッラの妻)。
ヴィヴィカ・ジュノー レピド。
ロベルタ・インヴェルニッツィ フラヴィア(レピドの妻)。
ヒラリー・サマーズ クラウディオ(反シッラ)。
フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ チェリア(クラウディオの愛する人)。
ミヒャエル・ボルス 神。

プリナ、イム、ジュノー、インヴェルニッツィ、マッズーリ、そしてビオンディ率いるエウローパ・ガランテのほとんどのメンバーは、2017年1月にウィーン、コンツェルトハウスで収録された同曲の演奏者である。ピリオド楽器と古楽奏法によるオペラを知る人に、今紹介した演奏家たちがどれほどの実力者かを説明する必要はないだろう。一言で言って、今回のプロダクションはヘンデル『シッラ』にとって理想的である。

それだけに若干の不安を抱いて(彼らの実力に対する不安ではなく、ライブ演奏に伴うハプニング等へのそれ)会場に向かった。聴いた演奏はあっけに取られるほどの素晴らしさであった。プリナの飄々とした威厳(ヘンデルはシッラをコミカルに表現しており、ただ野蛮な威厳を持って歌えばよいわけではない)、イムの高貴なあでやかさ、マッズーリの透き通ったみずみずしさ、ジュノーの圧倒的な音圧、そしてインヴェルニッツィの精確無比で力強く、かつお茶目な歌唱。とりわけ第2幕、ジュノーとインヴェルニッツィのデュエットに私は感激した。これを2022年に横浜で聴けるとは!

そういうわけで、怠惰な私としてはめずらしくこのような報告を書いた。

ついでの雑感というのは、その後もヘンデル熱がまったく治まらないことに関係する。『リナルド』はホグウッドとヤーコプス、『忠実な羊飼い(1712年版)』はベイツ、『アグリッピーナ』はヤーコプスの演奏で繰り返し聴いている(もちろん『シッラ』もビオンディの演奏で)。インヴェルニッツィがソロを歌っているカンタータ集を除いて、ヘンデルの初期イタリア語作品を私はあまり熱心に聴いてこなかった。反省して主な作品を聴き直している。

『忠実な羊飼い(1712年版)』は、iTunes ストアで購入した。iTunes の仕様では、ストアで購入した音源の場合でもトラック間にわずかな音の空白が入る。オペラの音源では、トラック・ナンバーはたんなるインデックスで、実際の音楽は切れ目なく続く場合が少なくない。iTunes で CD からオペラをコピーする際、レチタティーヴォとアリアが別のトラックになっている時には、私はこれらを結合して録音している(レチタティーヴォとアリアの間が本来の演奏以上に空いたり、音飛びが起きたりするのを避けるため)。しかし、ストアから購入した音源ではこれができない(いったん CD に焼いて曲間を詰めれば何とかなるかもしれないが、さすがにめんどうである)。『忠実な羊飼い』では、シーンごとにトラック・ナンバーが割り当てられており、シーンをまたいでレチタティーヴォが連続する箇所で音飛びが起きる。現状で CD は品切れなのでやむを得ずこれを我慢しているが残念である。これがついでの訴えである。

カテゴリー: ヘンデル, ロベルタ・インヴェルニッツィ | コメントは受け付けていません。

成瀬巳喜男「妻」「杏っ子」「鰯雲」など初DVD化

東宝から10月19日、初DVD化作品を含む成瀬巳喜男のDVDが発売される。
「妻」(1953)、「杏っ子」(1958)、「鰯雲」(1958)、「コタンの口笛」(1959)、「秋立ちぬ」(1960)の5タイトルだ。これで「妻」以降の戦後成瀬作品はすべてDVD化されることになる。

カテゴリー: 成瀬巳喜男, 映画 | コメントは受け付けていません。

成瀬巳喜男の音のつなぎについて

ショットをつないだり場面を転換したりする際、音を媒体にする編集手法は成瀬巳喜男作品を特徴づけるものである。たとえば物売りの声、豆腐屋のラッパ、夜回りの拍子木、通りに響いている三味線や歌声、風、雨、雷、落雪など、音と映像が同期することもあれば、音源は見えずに音だけが響いたり、音が映像に先行したり、場面が変わっても次のショットで前の場面の音がしばらく聞こえていたりすることもある。おなじみのちんどん屋のインサートショットも、ちんどん屋の演奏に関しては、こうした音のつなぎの延長上に位置づけることができる。

「稲妻」には引っ越し蕎麦を食べるシーンが2箇所あり(三浦光子の実家への引っ越しと、高峰秀子の世田谷の下宿への引っ越しの場面)、どちらも重要なので、私たちはこれらを蕎麦のつなぎと呼んでいる。蕎麦のつなぎは音のつなぎではないが、いま「稲妻」に言及するのは、本作がショット間に介在する音の巧みな扱いを示す例を複数含んでいるからだ。「稲妻」の小沢栄太郎は高峰に求婚しながらその姉とも関係している嫌らしい男で、スクーター(小型オートバイ)を乗り回している。高峰がその実家の2階を間借りしている女子大生と彼女の部屋で話をしていると、にわかにそのスクーターの音が聞こえてくる。小沢を蛇蝎のごとく嫌っている高峰は女子大生に居留守を使うように頼む。女子大生と小沢のツーショットを経て、再び2階のショットに戻る。ショットを媒介するこのスクーターの音が小沢の来訪を意味することがわかるように、フィルムの始めにはスクーターを間に置いて屋外で会話する小沢と高峰の姉のショットがある。また「稲妻」のピアノソロによるテーマ音楽は、先の女子大生がレコードで聴く曲でもあり、高峰が借りた世田谷の部屋の隣家の兄妹が演奏する曲でもある。テーマ音楽としての役割とは別に、後半の世田谷のシーンにおけるように、映画内のできごとの一部という役割をも負っている。そこでは流れるピアノの音、これを聴いている高峰、急に降り出す雨、(高峰の目に映る)隣家の庭に干しっぱなしの洗濯物、隣家の人に呼びかける高峰、中断されるピアノの音という順序でショットと音声が繋がれている。テーマ音楽がたんなる付帯音楽ではなく編集の構成要素となり、しかも演奏が中断されるこの趣向はおもしろい。

「稲妻」ラストの夕立ち、「驟雨」の驟雨、「流れる」の雷、「めし」と「山の音」の嵐(台風)などの描写は映像と音声の同期によって成り立ち(もちろん室内のショットでは屋外の雨や雷などが聞こえるが)、ショットを結ぶものというよりもそれ自体重要なショットだから、いま話題にしているショットをつなぐ媒体としての音とは異なる。しかし「あらくれ」の、庭木からどおっと雪が落ちるショットの場合、音と映像は競演していると見るべきである(この落雪音はたんなる効果音に留まらない独立性と強さを持っているからである)。本作の高峰秀子は兄(宮口精二)が残した借金のかた代わりに森雅之(その妻は長期入院して不在)の経営する旅館で働かされるはめになるが、その浴場の脱衣室で、突然現れた森から強引に情交を迫られる。驚いて後ずさる高峰を遠景に配して、ショット前景の木から雪が落ち、場面が変わる。この編集について、撮影を担当した玉井正夫は、「『あらくれ』の宿屋で雪がドサッと落ちるところがありますね。ちょうどキャメラの手前に落ちるでしょう。ああいうところは、その音との関係も考えてお撮りになります?」という質問に「そうですね」と答えている(蓮實重彦によるインタビュー、蓮實重彦・山根貞男編「成瀬巳喜男の世界へ」所収、p. 223)。このやり取りには、成瀬の音の扱いに関する重要な指摘が続く。

 

――成瀬巳喜男には雪とか雨とか、いろいろそういう季節の音があると思うんですが、『流れる』でしたか、雷がありましたね。

玉井 そうですね、あの方は風とか雨、そういう自然現象ですね、そういうものをふんだんに音の効果として入れますですね。ですから、画面が固定しておりますから、そういうものを入れて一つの絵のリズムを出そうと考えておられるんじゃないでしょうか。ですから、割と風の音だとか、雨の音だとか、そういうものをふんだんに入れていきますね。(同、p. 223-4)

 

音の効果が生み出す「絵のリズム」という指摘は重要だ。私はこのリズムが、映像と同期する付帯的な音声によってだけでなく、映像から少しずれて響く音や、単独で響く音などの、ショット間を媒介する音声によっても生み出されていると主張する。この点を意識して成瀬作品を鑑賞すると、いっそうそのおもしろさが増すのでお勧めだ。

戦前の代表作「妻よ薔薇のやうに」は、至るところに音楽が登場する楽しい作品で、音のつなぎもある。ヒロイン千葉早智子の伯父(藤原釜足)は、訪問した千葉に最近習い始めたという義太夫節(浄瑠璃の語り)を聞かせる。閉口している千葉の様子を気にも止めず、節回しに熱が入った藤原がとんとんと机を叩いて拍子を取ると、通りを行く人の打つ拍子木に同じ調子が移り、ショットは千葉宅に切り変わる。「妻よ薔薇のやうに」は戦後の成瀬作品よりも実験的なカメラワーク(垣根越しに室内をカメラの横移動で撮るショットなどもある)と編集を特徴とする。音声の扱いにも思い切った点があり、それが戦後作品の音の使い方を分析する上で参考になる。カメラワークや編集同様、音声の扱いも戦後作品では落ち着いたさりげないものに変わっていくので、大胆な手法を試していた戦前の例が成瀬的な音声の可能性を明らかにすると考えられるからである。「乙女ごゝろ三姉妹」では三味線の響きが通りに流れ、「鶴八鶴治郎」の2人の喧嘩は鶴次郎が三味線の節回しを歌って確認することから始まり、「歌行燈」では謡いの合いの手が自称名人を倒し、門付けの三味線と歌が複数のショットを貫いて流れ、ラストのシークエンスでは山田五十鈴の舞に花柳章太郎の謡いが重なる。音声のパフォーマンスはそれぞれ圧倒的であり、しばしば映像のパートナーという役割を踏み越えている。

今年6月26日、新文芸坐で澤登翠デビュー50周年記念という催しが開かれ、ほぼ満席の盛況だった。成瀬巳喜男のサイレント作品「夜ごとの夢」「君と別れて」が弁士つきで上映された。「夜ごとの夢」の語りを担当した片岡一郎氏は、開演に先立って次のような趣旨の非常に重要な指摘をされた。“この2作はともに1933年に撮られたが、すでにこの時期成瀬も小津もトーキーを撮ることを意識していた。シナリオにも演出にも音の響きを考えているふしがあり、弁士は過剰に語りの効果を狙うべきではない。字幕を読んでいるだけじゃねえかと思われるかもしれないが、この抑制には意味がある”、と。戦前のサイレント作品においてさえも、成瀬の編集に音が介在していることは、「君と別れて」の次の例を見ても明らかだ。芸者の置屋の夜の場面。ショットは次の順序で編集されている。通りを行く夜鳴きそば屋(屋台で中華そばを売って歩く商売)が吹くチャルメラ、置屋の一室でうたた寝している若い芸者、その手にそばの丼、そばを掬おうとして取り落とされる丼、はっと目覚めて手元に何もないことを確認する芸者。丼が現れて消えるまでは同一アングルのショットを重ねており、チャルメラを聞いた芸者が、お腹を空かせているのだろう、夢を見たというシチュエーションである。成瀬巳喜男はサイレント期からすでに、音の扱い方を研究していたことがわかる。

この2年ほどの間に、東宝によって戦後の成瀬作品が続々とDVD化され発売されていることは別のエントリーで述べた。その中に戦後第1作「浦島太郎の後衛」が含まれている。だれもが認める失敗作だが、どのような点が失敗なのだろうか。私は音声の扱い方を間違えている点と答える。本作の主人公は特異な叫びで敗戦直後の日本社会の矛盾を訴えてみせる(この発声にはフリもついている)。ラジオを通じて彼の叫びは日本中に伝播し、あるインチキ革新政党は宣伝のために彼を主幹に迎える。こう書くと一見音声が主役のようだが、下手な主役なのである。こんなふうに泥臭い音声が独り歩きする演出は、すでに見たような成瀬作品の細やかでリズミカルな音の編集からはほど遠い。とはいえ音で成功し、音で失敗するというのはさすが成瀬巳喜男である。

 

カテゴリー: 成瀬巳喜男, 映画 | コメントは受け付けていません。

リヴェット「ノロワ」のシナリオ

リヴェット「ノロワ Noroît」について、ここでは次の3点を指摘する。

1. 登場する音楽家たちはMorag(Geraldine Chaplin)とErika(Kika Markham) の復讐の対象に入っていない。いくつかの場面で即興演奏している彼らは、「デュエル」のピアニスト同様、進行するできごとを見聞きはできるが、そこから切り離された次元にいるかのようである。

2. MoragとErikaが語る英語のセリフはエリザベス朝時代の殺人劇 The Revenger’s Tragedy(Cyril Tourneur作と伝えられている)から採られている。「ノロワ」の各場面でThe Revenger’s Tragedy のどのセリフが用いられているかを明らかにする。(注1)

3. Morag とErika の標的は計14人(本作の最初の死者、すなわちErikaが崖の上の斜面で突き倒し、岩で頭部を叩いて殺す女を除けば13人)である。彼(女)らがどんな順序でどのように殺されていくかを確認する。

注1 The Revenger’s Tragedy のセリフは The Project Gutenberg EBook of A Select Collection of Old English Plays, Volume 10 (https://www.gutenberg.org/files/46412/46412.txt) から引用した。本作には日本語訳がある(エリザベス朝演劇集Ⅳ、シリル・ターナー、小田島雄志訳『復讐者の悲劇/無神論者の悲劇』、白水社、1996)。小田島訳は上演を想定して流麗闊達な日本語に意訳することが多く、このエントリーの実質的な目的(意味を明確にすること)と必ずしも合致しない。そこで本稿では小田島訳を参考に直訳を試みた。リヴェット映画祭(2022年)で上映された「ノロワ」の字幕のうちThe Revenger’s Tragedy に基づく英語に対応する部分は、おそらくリヴェットらのシナリオから訳出されたものだろう。ターナー作品のコンテクストとは一致しない箇所もあるが、映画字幕であり、やむを得まい。

以上3点は、「ノロワ」のシナリオと演出に仕掛けられたいわば装飾であり、これらの仕掛けが錯綜しているせいで映像や演出に集中しにくいと感じる鑑賞者もいるだろう。3点をあえてくわしく説明する目的は、「ノロワ」の撮影(William Lubtchansky)、ロケーションとセット、即興性を重視した演出、演技と同期する音楽を堪能するために、これらと積極的な関わりを持たない(全然持たないと言うつもりはない)細部から解放されることである。したがって、この記事を通して「ノロワ」に関する理解が深まるといったことは期待できない。ただ「ノロワ」のシナリオの入り組んだ仕掛けを過剰に気にする理由はなくなるかもしれない。本稿はこういう消極的な目的で書かれている。そしてエントリーの性格上、以下の記述にネタバレでないものはない。未見のかたは読まないでほしい。

「ノロワ」冒頭。海辺で自分の兄弟の亡骸を抱きしめ、身内のほとんどを死に追いやった者たちへの復讐を誓うGeraldine Chaplin のショットだ。初めフランス語で語る彼女の言葉は切れ目なく次の英語のセリフ(Impudence! からlet me blush inward まで)に続く。これはThe Revenger’s Tragedy、第1幕第3場からの引用である。

“(Let blushes dwell i’ th’ country. ) Impudence!

Thou goddess of the palace, mistress of mistresses,

To whom the costly perfum’d people pray,

Strike thou my forehead into dauntless marble,

Mine eyes to steady sapphires. Turn my visage;

And, if I must needs glow, let me blush inward”

(「(恥じらいなどは田舎暮らしをさけておけ。) 図々しさよ、/おまえ、宮殿の女神、女王の中の女王、/高価な香水をつけた人々が祈る相手よ、/さあ、おれの額を揺るぎない大理石に、おれの目を/ひるまないサファイアにしてくれ。この顔つきを変え、/恥じるべき時は心のなかで赤面させてくれ」第1幕第3場、Vendice)

The Revenger’s Tragedy の主人公Vendiceは、かつて自分の婚約者を、彼女に情交を迫って拒絶された老公爵の手で毒殺された。この主人公は婚約者のしゃれこうべ(頭蓋骨)を自室に置き、老公爵への復讐を誓っている(Vendice は「復讐者」を意味する)。第1幕第3場で彼は変装して鉄面皮な男になりすまし、公爵の息子の「内密な用事」(自分になびかない娘を誘惑し説得すること)を手伝う。このセリフは impudence(図々しさ、あつかましさ) に向かって、復讐実現のため、自分を恥知らずにしてくれ、この顔つきを変えてくれと呼びかけるもの。「ノロワ」の最初のショットで同じセリフを口にするGeraldine Chaplinは遠景に敵たちの居城を見ており、復讐の決意を新たにしている。

さて少し後、Moragと再会したErika(復讐の標的1人を殺した直後で、手は血に濡れている)は、すでに疲れたように「まだ13人残っている」と言う。Giulia(Bernadette Lafont)が支配する城の中の標的はこれだけの数いるということだ。

最初にそのBernadette Lafontが登場するショットは、林の中を4人の男女が馬に乗って緩やかに進むマグリット風のそれであり、4人の内訳は、Lafont、Jacob(Humbert Balsan)、Ludovico(Larrio Ekson)、そして無名の青緑色のシャツ(光のあたり方によって青にも緑にも見える)を着た髭面の男。続くショットとセリフから、4人は城への帰還途上であり、盗賊団の他のメンバーは彼(女)らとは別行動を取って海賊行為を働いていたことがわかる。盗品とともに上陸を始めた海辺の仲間のもとへ、Giuliaの指示で髭面の男は自分たちの帰還を知らせに行く。ここからしばらくセリフなしの場面になる。やってきた髭面の男にErikaがなにごとか話しかけ、2人きりでどこかへ向かう姿がショット内に見られる。ややあって男はぷかぷか断崖下の波間に浮かんでおり(その経緯を説明するショットなし)、自力でそこから這い上がれない様子。さらにしばらくして彼は溺れている。つまりこの男が次の犠牲者である。

ここで残りの復讐対象の内訳をまとめておこう。スペルはクレジット(注2)による。数字は殺される順序である(Giuliaは2度死ぬため数字が2個ある)。

Giulia(Bernadette Lafont) 盗賊団の首領。MoragとErika の最も重要な復讐対象(13,15)。

Regina(Babette Lamy)  Giuliaの妹。贅沢だが幽閉同然の生活を送っている(4)。

Elisa(Elisabeth Medveczky)  Reginaの娘。母よりも伯母Giuliaを慕っている(14)。

Celia(Danièle Rosencranz)  Reginaの奴隷。Giuliaによって誘拐されて城に来た(6)。

Jacob(Humbert Balsan)  Giuliaの腹心で愛人。Reginaとも関係している(11)。

Ludovico(Larrio Ekson)  Giuliaの腹心。じっさいにはGiuliaが隠した財宝のありかを探っている(7)。

Fiao(Anne-Marie Fijal)  城の雑用係(丸顔・明るいブルネット)。名を呼ばれることはない(5)。

Charlotte(Carole Laurenty)  城の雑用係。最初の晩餐シーンで料理の大皿を運びながら即興で歌う。名を呼ばれることはない(9)。

Arno(Anne-Marie Reynaud)  Giulia配下の小グループのトップ(12)。

Tony(Marie-Christine Meynard)  Arnoグループのメンバー。Giuliaの専制に反発したArnoによってGiulia暗殺を委ねられるが失敗し、Arno自身の手で殺される(3)。

Romain(Anne Bedou)  Arnoグループのメンバー。最初の晩餐のシーンでArnoから名を呼ばれる(10)。

Arnoの弟(Georges Gatecloud) 名を呼ばれることはない。黒髭(8)。

注2 このクレジットは The Jacques Rivette Collection(BD/DVDボックス、Arrow Films、2015) のブックレットに添付されているものである。「ノロワ」本編のクレジットにはキャスト名だけが載せられている(役名の表記はない。またErikaが最初に殺す女と次の犠牲者のキャスト名は本編にもブックレットにも記載されていない)。ここに掲げる役名は前記ブックレットp.123の記載による。Fiao とCharlotte の名は劇中で一度も呼ばれないので、その識別はAnne-Marie Fijal 自身のウェブサイトにある映像によって行なった(Fijal は本作制作当時、すでに作曲家として活動していたが、「ノロワ」の音楽は担当していない。本作の音楽は映画に登場する3人の音楽家による即興演奏と見られる)。なおこのソフトは2Kレストア版で、2022年のリヴェット映画祭で上映されたものと同一のヴァージョンだが、英語のセリフには字幕が付いていない(英語話者向けのソフトだから不思議はないが、「ノロワ」がフランス国内で最初に公開されたとき、英語のセリフにフランス語字幕が付されていたのかどうかはわからない)。

ご覧の通り、ここに3人の音楽家は含まれない。彼らはラストの死の舞踏(仮面舞踏会)でも伴奏を務めるが、それ以前に登場するときと同様、できごとの進行とは異なる次元に位置しているように見える。たしかに最初の晩餐の場面でCharlotteは彼らの演奏に合わせて歌うし、仮面舞踏会の準備の際、楽器を調律する彼らの様子を見たElisaは太鼓を叩いて通り過ぎる。しかしこれらの動作は、劇中人物たちの見ているものが私たち観客の目にするものと同じであることの証拠にはならない。Charlotteは独唱しているつもりだったのかもしれないし、Elisaはしょっちゅうダンスの振り付けのようなしぐさをするからである。「デュエル」のピアニストがそうだったように、「ノロワ」の3人の音楽家も、彼らの側からすればたしかにできごとの立会人だが(しばしばできごとに合わせて即興演奏するので)、必ずしも劇中人物たちのそれと同じ次元にはいない。これが説明されるべき第1点だった。

3番目に殺されるTony のエピソードは見ればわかるので省略し、Tony の襲撃からGiulia を救ったことで(もちろんこれはErika とともに仕組んだ計略である)、Morag がGiuliaのボディガードとして城に潜入するのに成功した後のエピソードに進もう。深夜、悪夢にうなされたGiulia が、Jacob を連れて寝室に入ると、Morag とErika は彼女たちの部屋でやっと2人きりになり、抱擁しあってそのまま眠ってしまう。少し明るい光が差してきて、目覚めた2人が交わす会話は英語である。これもThe Revenger’s Tragedy、第1幕第3場から採られたもので、「原作」ではVendiceと彼を雇おうとしている公爵の息子 Lusurioso の対話(始めのカッコ内は省略。Vendice 単独のセリフもMorag とErika が分担して語る。VEN=Vendice、LUS= Lusurioso)。

“VEN. (Brothers with brothers’ wives. ) O hour of incest!

Any kin now, next to the rim o’ th’ sister,

Is man’s meat in these days; and in the morning,

When they are up and dress’d, and their mask on,

Who can perceive this, save that eternal eye,

That sees through flesh and all? Well, if anything be damn’d,

It will be twelve o’clock at night; that twelve

Will never ‘scape;

It is the Judas of the hours, wherein

Honest salvation is betray’d to sin.

LUS. In troth, it is true; but let this talk glide.

It is our blood to err, though hell gape wide.

Ladies know Lucifer fell, yet still are proud.

(「VEN. (兄弟は彼らの妻と。)まさに近親相姦の時間。/妹のあそこを皮切りに、血族のだれにでも/いまの男は喰らいつく。朝になって/起きて着がえ、いつもの仮面をかぶれば、/だれも気づきようがない、なんでもお見通しの/神様の目をのぞいては。そう、何かが地獄に堕ちるとすれば、/その時間は真夜中だ、午前零時だけは/けっして逃げない。/それは時間の中のユダの時間、そこで/いつわりなき救いは裏切られ、罪の手に落ちる。/LUS. ほんとうに、間違いない。だがこの話はもういい。/地獄が大きく口を開けていても誤るのが私たちの情欲。/ルシフェルの失墜を知りながら女たちはなお高慢だ。」第1幕第3場)

「ノロワ」の復讐者2人の対話に至る長回しのショットは美しい。デュラス「インディアソング」に、複数の人物がその中で活人画のように静止し、しばらくして後ろから朝日が差しこんでくるショットがある。本作のいま指摘した箇所はこれを思わせる。余談だが、最初に映画館で本作を見た時(今年6月)、「近親相姦」をめぐるこのモダンなセリフがエリザベス朝演劇のものとは信じられず、「ノロワ」の英語のセリフにThe Revenger’s Tragedy 以外のものが含まれているのかと勘違いした。それゆえ小田島雄志訳「復讐者の悲劇」を読んで「近親相姦の時間」のくだりに再会したときは驚き、うれしくもあった。

続いてRegina の最期をめぐる重要な物語に移ろう。ここにはThe Revenger’s Tragedy の中心をなすエピソードが取り入れられている(映画では、複数の場面で同じセリフが反復されるだけでなく、Regina殺しを再現する「劇中劇」のシーンにおいて、「原作」中の対応する場面が長く引用される)。

The Revenger’s Tragedy の主人公は、公爵の息子の鉄面皮な腹心になりすますことを通じて老公爵に接近する。Vendiceの素性に気づいていない老公爵も自分の女遊びの仲介者として彼を利用する気になり、これに応えてVendiceは格好の女を呼び出す手はずを整えたと嘘をつく。じっさいには暗い納屋に少女を模した人形を横たえ、彼自身の婚約者のしゃれこうべを頭部に据えて仮面を付け、その唇に毒薬を塗っておく。なぜこんなバカげた話をリヴェットが引用したのか不明だが、とにかくこの計画は成功し、毒の回りつつある老公爵は復讐の経緯と死後の自分が被る恥辱を知らされる。その上同じ納屋には公爵夫人と老公爵自身の庶子が密会しにやってくる。彼らの会話を聞いた老公爵は絶望して死ぬ。

以上の設定は「ノロワ」のRegina の最期にそっくり取り入れられている。彼女はMoragの兄弟の亡骸(愛人Jacobによく似たこの死体は、唇に毒薬を塗られて、彼女のベッドに横たえられている)にキスし、その上ほんものの Jacobと娘Elisaの獣のような交接を目の当たりにして死ぬ。これらを仕組んだのはMoragである。

“I have not fashion’d this only for show

And useless property; no, it shall bear a part

E’en in its own revenge. This very skull,

Whose mistress the duke poison’d with this drug,

The mortal curse of the earth shall be reveng’d

In the like strain, and kiss his lips to death.

As much as the dumb thing can, he shall feel:

What fails in poison, we’ll supply in steel”.

(「こんなもの(注 婚約者のしゃれこうべ)を用意したのは、ただ見せ物のため、/役立たずの小道具のためではない。ちがう、本人にも/自分の復讐劇で一役演じてもらうのだ。まさにこの骸骨、/あるじの女を公爵が殺した骸骨が、この毒薬で、/大地の死の呪いで、同じ形の/復讐をなし遂げる、公爵の唇に死の接吻をする。/髑髏にできるかぎり、公爵は思い知るがいい、/毒にできないことはおれたちが剣で補ってやる。」第3幕第5場、Vendice)

いよいよ復讐に着手しようとするVendiceの語りである。冒頭の “I have not fashion’d this only for show and useless property” には聞き覚えのあるかたも多いだろう。22年のリヴェット映画祭で上映された「ノロワ」では、Morag とErikaがMoragの兄弟の亡骸を入れた包みの周囲をめぐりながら呪文のように唱える英語のセリフに字幕が付いていないが、これもいま引用した箇所の抜粋である(2人は同じセリフをそれぞれ繰り返している)。またフィルムのラスト近く、Morag とErikaが2人きりで登場する海辺のシーンで、Giuliaの招待に応えてひとり城に戻ろうとするMoragを制止し、Erikaが激しい調子で口にするのも “I have not fashion’d this only for show and useless property; no, it shall bear a part e’en in its own revenge”である(noはほとんど絶叫)。このコンテクストに置かれると、this は2人の復讐の企み全体を意味する。「それにもそれ自身の復讐劇で一役演じてもらう」とここでErikaが言うとき、他でもない自分たち2人の手でなし遂げられる復讐劇が強調されている。しかし、MoragはErikaがすでにGiuliaの掌中に落ちたと判断しており、彼女にはErikaの言葉がうつろに響く。

「原作」では続いて老公爵が登場する(Ven.=Vendice、DUKE.=公爵、Piato=Vendice の偽名。Vendiceのセリフで「兄弟」と呼ばれるのは、復讐の計画を補佐し、この場にも隠れて参加している本当の兄弟である。また映画ではセリフの一部に簡略化/省略された部分がある)。後述する「劇中劇」は老公爵とVendiceの対話からなる。「原作」では途中他の登場人物が顔を出すが、フィルムの「劇中劇」はそういう箇所を飛ばしている。また以下の引用箇所の直後、老公爵は妻と自分の庶子の密会現場を目撃する。Reginaのエピソードを考慮すれば引用しておいた方がよいかもしれないが、あまりに長くなるので控えた(興味のあるかたは先述の The Project Gutenberg のサイトで続きをご覧になってほしい)。

DUKE. Piato, well-done, hast brought her! what lady is’t?

VEN. Faith, my lord, a country lady, a little bashful at first,

as most of them are; but after the first kiss, my lord, the

worst is past with them. Your grace knows now what you have to

do; she has somewhat a grave look with her――but――

DUKE. I love that best; conduct her.

VEN. Have at all.

DUKE. In gravest looks the greatest faults seem less.

Give me that sin that’s rob’d in holiness.

VEN. Back with the torch! brother, raise the perfumes.

DUKE. How sweet can a duke breathe! Age has no fault.

Pleasure should meet in a perfumed mist.

Lady, sweetly encountered: I came from court,

I must be bold with you. O, what’s this? O!

VEN. Royal villain! white devil!

DUKE. O!

VEN. Brother, place the torch here, that his affrighted eyeballs

May start into those hollows. Duke, dost know

Yon dreadful vizard? View it well; ’tis the skull

Of Gloriana, whom thou poisonedst last.

DUKE. O! ‘t has poisoned me.

VEN. Didst not know that till now?

DUKE. What are you two?

VEN. Villains all three! the very ragged bone

Has been sufficiently reveng’d.

(……)

Alas! poor lecher: in the hands of kraves,

A slavish duke is baser than his slaves.

DUKE. My teeth are eaten out.

VEN. Hadst any left?

(……)

Then those that did eat are eaten.

DUKE. O my tongue!

VEN. Your tongue? ’twill teach yon to kiss closer,

Not like a slobbering Dutchman. You have eyes still:

Look, monster, what a lady hast thou made me!

My once betrothed wife.

DUKE. Is it thou, villain? nay, then–

VEN. Tis I, ’tis Vendice, ’tis I”.

(公爵. ピアトか、よし、彼女を連れてきたな。どんな女だ。/VEN. それが公爵様、田舎娘で、初めは少し恥ずかしがるかもしれません。田舎娘はたいていそんなものです。でも一度キスしたら、公爵様、もう大丈夫。どう扱えばいいかはご存じの通りです。どことなくおごそかな顔をしていますが――/公爵. そういう女がいい。連れてこい。/VEN. さあ、はじめよう。/公爵. おごそかな顔は大きな罪を小さく見せる、/聖なる衣をまとった罪を味わいたい。VEN. 松明をもってさがれ兄弟、香をたくんだ。/公爵. 公爵の吐く息のなんて甘いこと。年など問題ではない。/快楽は香をたいた暗闇で出会うべし。/お嬢さん、会えてうれしい、わたしは宮廷からきたのだ、/失礼するよ。お、何だこれは、おお。/VEN. 悪党公爵、白い悪魔。/公爵. ああ。/VEN. 兄弟、松明をここへ、こいつの目玉が驚いて飛び出し、/骸骨のうつろな穴にはまるように。公爵、/その恐ろしい仮面がわかるか。よく見るがいい、それは/グロリアーナの骸骨、おまえが最後に毒殺した犠牲者だ。/公爵. それがわたしを毒殺するのか。/VEN. やっと気づいたか。/公爵. おまえたち2人はなにものだ。/VEN. おまえと合わせて悪党が3人。みすぼらしい/この骸骨もこれで十分恨みを晴らせたろう。/(……)ああ、好色漢もあわれなものだ、悪党の手にかかると/奴隷なみに卑しい公爵が奴隷以下になりさがる。/公爵. 歯が食いちぎられるように痛い。/VEN. まだ歯が残ってたか。/(……)さんざん食いちぎってきた歯が食いちぎられるのか。/公爵. ああ、舌が。/VEN. 舌? そいつは教えようとしている、よだれをたらす野良犬のようなのではない、/ちゃんとしたキスのやり方を。目がまだ大丈夫なら、/見ろ、化け物、よくもこんなひどい姿に/変えてくれたな。おれのかつてのいいなずけを。/公爵. おまえか、悪党。すると――/VEN. そう、おれだ、Vendiceだ。」第3幕第5場)

Regina の死の直後、城の広間では奇妙な催しが行なわれる。メンバー全員の前で、Morag とErikaがThe Revenger’s Tragedy の老公爵殺害の場を演じるのである(Erika = Vendice、Morag = 公爵)。ここではいま引用したセリフのほとんどが用いられる。この劇中劇は、じっさいにはGiuliaの指示で行なわれたRegina殺害の事実を隠すため、劇を見て動揺した者を犯人に仕立て上げることを狙っている。こうしてFiaoが5番目の犠牲者となる(彼女を血祭りにあげるのはGiuliaだが)。

「ノロワ」にはこの後もう一箇所、The Revenger’s Tragedy からの引用がある。Regina殺しの犯人にされた無実のFiao が、他のメンバーの目の前でGiuliaによって喉を割かれた後、Morag が「なぜ天は世界を破壊しないのか」と訴える場面である。「原作」の第2幕第1場と第2場のVendiceのセリフ3つが結びつけられている。

O sovereign heaven, with thy invisible finger,

E’en at this instant turn the precious side

Of both mine eyeballs inward, not to see myself.

(「ああ至高の天よ、あなたの目に見えない指で、/たったいま、私の両眼のだいじな表側を/裏返しにしてください、私自身を見ないですむように」第2幕第1場、Vendice)

“Why does not heaven turn black, or with a frown

Undo the world? Why does not earth start up,

And strike the sins that tread upon’t?”

(「なぜ天は真っ黒になり、顔をしかめて/世界を破壊しないのか。なぜ大地は驚いて立ち上がり、/自分を踏みにじる罪を撃たないのか。」第2幕第1場、Vendice)

Now must I blister my soul, be forsworn,

Or shame the woman that receiv’d me first.

I will be true: thou liv’st not to proclaim.

Spoke to a dying man, shame has no shame.

(「魂を火ぶくれにして嘘をつくべきか、/それとも最初におれを抱きあげた母親に恥をかかせるべきか。/真実を言おう――おまえはそれを公言するほど長くは生きない(注 この「おまえ」は公爵の息子のこと。Vendiceはここで自分の母親が誘惑に負けつつあることを公爵の息子に伝えるかどうか逡巡しており、この部分は傍白である)/死にゆく者に話したところで恥は恥ではない。」第2幕第2場、Vendice)

原作では、公爵の息子の手先となったVendiceが、他ならぬ自分の妹こそだまして誘惑する相手だと知る。やむなく変装して母と妹を訪れ、手を変え品を変えして公爵の息子の申し出を受けるよう説得する。最初のセリフでは、金貨を見せられた母が誘惑に動かされそうになるのを見て、母をだます自分の姿を見ないですむようにしてくれと、彼は天に訴える。その場に姿を表した妹は申し出を拒否するが、母はVendiceに従おうとしている。この母の態度を見ておおいに嘆くのが2つ目のセリフ、続く第2場、公爵の息子との対話の中で、傍白として語られるのが3つ目のセリフである。どれも大仰であり、「原作」ではいくぶんコミカルだが、「ノロワ」のコンテクストに置かれるとほんものの嘆きになる。

以上がThe Revenger’s Tragedy からの引用のすべてである。「ノロワ」はThe Revenger’s Tragedyの翻案ではまったくなく、いくつかのモティーフと設定を借用しているだけであること、とはいえ英語のセリフの引用は、復讐者2人の孤独と悲痛のなかなかすぐれた表現になっていることがわかる。これが説明されるべき第2点だった。

最後の論点に進もう。登場人物たちはどんな順序でどのように殺されていくか、である。読者(そういう者がいるとして)の中には、映画を見て自分で確認すればよいだけのことだと言われるかたもいるだろう。もっともである。私としては、ディスクで見ても、映画館で見ても、なおかつわかりにくかったので、自分にわからせる程度の意味でこれを書いている。そんなことがあるものかと思われるかたは、ご自分で殺しの順序を書き出してみるといい。もしきちんと思い出せなければ、この先は読まずにもう一度映画をご覧になってほしい。たぶんそれでも不明な点が残るだろう。そうだとすれば、あなたは「ノロワ」を見終えていない。その上で、このような記事にも多少の意義があることを認めていただきたい。

すでに述べたのは、最初に急斜面でErikaに殺される女、溺死する髭の男、Giuliaを襲おうとして失敗し、Arnoに殺されるTony、Giuliaの指示を受けたMoragに毒殺されるRegina、Regina殺しの濡れ衣を着せられて殺されるFiaoの5件である。十分長くなったので、この先は箇条書きしよう。

6 Celia 彼女はMoragが「なぜ天は世界を破壊しないのか」と訴えた直後に彼女とErikaがいる部屋を訪ね、自分はGiuliaに誘拐されてここにおり、Reginaの奴隷になっていたが、今後はMoragとErikaに協力すると言う(2人がなんらかの意図を持って城にやってきたことに気づいていたようだ)。さすがに次のシーンはほとんどの読者が覚えていると推測するが、本作にはGiuliaとLudovicoが即興でダンスをする素晴らしい長回しがある(Bernadette Lafontの情熱が沸騰している場面だ)。すでに述べておいたように、LudovicoはGiuliaが秘匿している財宝を狙っている。このダンスも彼女から宝のありかについてヒントを聞き出そうとする試みのひとつだ。ダンスの後で、GiuliaはLudovicoに「私と組むか」と尋ねる。これはもちろんLudovicoを試しているのだが、彼はまんまと彼女の罠にはまる。Giuliaは嘘の情報を彼に与える。これを盗み聞きしたCeliaは情報をMoragとErikaに伝えるが、かえって2人はCeliaがGiuliaのスパイであることを疑い、Celiaは Moragによって殺される。私はこれを本作の死の中でも痛ましいもののひとつだと思う。おそらくCeliaは自分が聞いた情報を真実と信じたのだろう。

7 Ludovico 彼の死の場面を覚えていない人は少ないはずだ。この件については省略する。

8 Arnoの弟 ここから先の殺人はすべて死の舞踏(仮面舞踏会)で発生する。まずダンスをするのはArnoとその弟だ。2人とも倒れるが、やや後でArnoだけ立ち上がる。弟は死んだ。

9 Charlotte 続いてRomain(Arnoグループのメンバー)とCharlotteのダンスになる。Romainは気合だけでCharlotteを殺す。

10 Romain 城に戻ってきたMoragとJacobの戦いがすでに始まっているが、この間Romainは次の標的としてElisaを選び、城の外の断崖に彼女を追う。ところが、身をかわしたElisaと入れ違いに断崖から墜落する。本作でもっとも情けない死に方と言えよう。

11 Jacob Moragとの戦いに破れる。彼の死の描写は本作の見どころのひとつ。

12 Arno GiuliaはArnoをダンスのパートナーに選ぶ。ただしGiuliaは毒針のついた指輪をしている(これはフイヤード「ヴァンピール」でもおなじみの、フランス映画では由緒ある凶器のひとつである)。ダンスするひまもなくArnoは悶絶して死ぬ。本作でも抜きん出て卑劣な殺しだ。

13 Giulia1 そこへJacobを倒したMoragがやってくる。Giuliaは逃げるが、Moragに心臓を一突きされて死ぬ。

14 Elisa 城を後にしようとするMoragは、反対に城に戻ろうとしていたElisaに出くわす。Elisaは「(今度は)私の番?」と尋ねるが、彼女にMoragはここを立ち去るように言う。ところが再びGiuliaが現れ、Elisaを自分の相続人に指名する。その証明となる飾りのようなものを首にかけられたElisaは、ショックを受けて死ぬ。

15 Giulia2  MoragにGiuliaは「今夜私は2人いる」と告げ、2人の最後の戦いが始まる。2人は刺し違えてともに死ぬ。

以上が説明されるべき第3点だった。

カテゴリー: ジャック・リヴェット, 映画 | コメントは受け付けていません。

Le Pire n’est pas toujours sûr

“Mais en même temps renaît le paradoxe : si le moment de la mort volontaire est l’instant absolu, est-ce le Souverain Bien qu’il nous fait atteindre ― puisque le Bien c’est l’Être et c’est la Vie ― ou le Souverain Mal? Incapable d’en décider, Genet abandonne l’immanence : il y a un Bien transcendant, un Dieu dont on ne peut enfreindre les ordres et qui damne, une Société toute-puissante. A partir de là, le cycle recommence : nous n’en sortirons pas. Le Mal est toujours ailleurs : si je le cherche dans le Sujet, il saute dans l’Objet; si je cours à l’Objet, il revient dans le Sujet.Caché, latéral, évanescent, il emprunte toute sa force au Bien. Mieux : c’est l’âme grasse des gens de bien qui fait sa nourriture préférée. Celui qui veut le Mal pour le Mal est terrassé, aveuglé, transi par le Bien; mais celui qui prétend, dans le paix de son coeur, se conformer aux bons principes, c’est celui-là que pourrit par en dessous l’existence immonde et veloutée d’une postulation satanique.《Le Pire n’est pas toujours sûr》, dit Claudel. En effet, pour Genet, il n’est pas sûr. Mais pour celui qui proclame qu’il n’est pas sûr, pour le gros plein d’Être qui tourne tout à la gloire de Bien, pour celui-là le pire est toujours sûr : le Mal que Genet cherche en gémissant, il est tranquillement installé dans le coeur de Claudel” (Saint Genet, Comédien et martyr (Gallimard, 1952 et 2011), LivreⅡ‘Première conversion : Le Mal’, ‘Un travail quotidien, long et décevant’ p.191-2).

「だが同時にまた逆説が生まれる。意志的な死の時が 絶対的 瞬間なら、それは私たちを至高の善へ到達させるのだろうか――善とは存在であり、生だから――、それとも至高の悪へだろうか。これを決定できず、ジュネは内在を放棄する。すなわち超越的善、その命令に背くことができず、劫罰をもたらす神、全能の社会がある。ここから再び循環が始まり、それを私たちは脱することはないだろう。悪はつねによそにある――私が主体の中に探せばそれは客体の中に逃げ、私が客体に行けばそれは主体に戻る。隠され、脇にのけられ、消えてゆく悪は、そのすべての力を善に借りている。それどころか、悪の好物は善人たちの肥満した魂である。悪のために悪を欲する者は善によって打ちのめされ、盲目にされ、凍える。しかし、安らかな心でよい原理に従っていると主張する者は、悪魔的な請願の、汚れてすべすべした存在を通じて内部から腐敗している。「最悪は必ずしも確実ではない」とクローデルは言う。じっさいジュネにとって最悪は確実ではない。しかし、それが確実ではないと宣言する者、存在に肥え太り、すべてを善の栄光に転じる者にとって最悪はつねに確実である――ジュネがうめきつつ求める悪はクローデルの心に安住している」(『聖ジュネ』、第二部「最初の回心:悪」、「長く、あてにならない、日々の仕事」)。

いきなりこのような引用をしても何が何やらかもしれない。サルトルはジュネ論で、十代後半のジュネの生き方を著作に基づいて分析し、その生き方に認められる多くの矛盾を解読する方法として回転ドア tourniquet という概念装置を提案している。思考と行動の参照枠組み二組の、一方から他方への移行ということである(交互に行き来することもある)。

一般に、矛盾は解消不能なままに留まるか、または対立を保存して止揚される。サルトルが回転ドアの比喩で言うのは、解消されない矛盾の状態のひとつだ。お前は盗んだ、という他者の言葉によって社会から放逐された幼いジュネは、それなら自分の意志で泥棒になってやると決意する。日々の行動としては盗みを働くのだが、同時に彼の頭にあるのは泥棒になることである。サルトルは幼いジュネの意識の中に、行為のカテゴリー(悪をなす)と存在のカテゴリー(悪人である)が同居していると考える。

存在のカテゴリーにおけるジュネの試みは無理すじである(もともと悪い少年ではなかったので)。ジュネは裏社会においてこれぞ悪人とみなされる悪人になろうとするが、ひ弱でたいしたこともできない彼の器ではない。仕方なく彼は男娼として裏社会の顔役の下僕となり、顔役を悪の化身にすると同時に自分をこの男と同一化することによって、‘自分において’悪の存在を実現しようとする。しかし、その顔役も悪を演じているだけであり、ジュネのもともと鋭い意識は顔役の仮象と、彼に同一化しようとした自分の仮象の両方に気づく。それなら、と、ジュネは自分で理想の悪を作ってしまおうとする。ジュネの意識は自分を泥棒よばわりした他者の原視線を取り込んで鋭敏なので、たえず自分を観察しているこの反省的自己意識を、悪の原点、ラスボスの地位につけるのである。これがいわゆる聖ジュネだ。

しかし、彼がじっさいにやっていることはしがないかっぱらいと売娼にすぎない。存在のカテゴリーにこだわっているかぎり、彼の意識は仮象(存在のみかけ)を作っては引き剥がすことの連続である。そこで彼はもう一つのカテゴリー(行為)へ目を向ける。すなわち、悪をなす。これを徹底するなら、求められるのは最悪をなすことだ。最悪とは何か。ここからジュネの苦行が始まる。彼はその著作において、理念的最悪を物語の登場人物の思考と行為を借りて語っている――存在することの絶対的な破壊と、自分が絶対に犯したくない行為をあえて犯すことである。たとえばある登場人物は、自分が愛する年端もいかない少年を、そうしてはならぬという意識を持ちながら虐殺し、死刑になる。存在の充溢が善であるとすれば、自分が愛する存在を善意に逆らって殺し、自分もまた殺されるということは、最悪なのではないか、というわけだ。でもジュネにこれができるのか。できない。それだけではなく、これができたとしても、もう悪ではないのでは? なぜなら最悪をなそうとする意図と行為が最高度の力を発揮してしまうからである。この力はれっきとした存在だから、存在の破壊であるはずの悪が、存在を作り出してしまうではないか。

こうした事情をサルトルは回転ドアと呼んでいる。じっさいには、ジュネは行為のカテゴリー上にある暫定的な解決策(暫定的、というのは、この解決も再び回転ドアの次の回転を準備するだけだから)を見出すが、それは読んでのお楽しみ(先の引用箇所の直後に書いてある)。

回転ドアというこの概念装置を念頭にもう一度先の引用を読んでいただければ、否定性でしかない悪が善に頼らざるを得ないこと、善の栄光を宣言する者の心にこそ悪が住み着いているということの意味は明瞭だろう。

ところでこの『聖ジュネ』からの引用の意図は、サルトルのフローベール論に繰り返し出てくる「最悪は確実である Le Pire est toujours sûr」の出典がクローデル『繻子の靴』であると報告することにある。

『繻子の靴』には、物語に先立って、序文に相当する短い文章がある。この演劇がどのように上演されるのがよいかについての簡潔な覚書である。これが作者自身による添え書きなのか、それともすでに物語が始まっているのかは不明だ。この文章の最後はこうなっている。

L’ANNONCIER, un papier à la main, tapant fortement le sol avec sa canne, annonce :

LE SOULIER DE SATIN

ou le pire n’est pas toujours sûr

action espagnole en quatre journées.

(口上役は、片手に一枚の紙を持ち、杖で激しく床を叩いて、告げる――

繻子の靴

あるいは

最悪必ずしも確実ならず

四日間のスペイン風芝居)

先のサルトルの引用で、あたかもクローデルがすべてを善の栄光に帰する肥満的楽観主義者であるかのように書かれているのは不当である。たしかに「最悪は必ずしも確実ではない」という主張は、どんなことの背景にも最善を期する神の意志があるというライプニッツ的楽観主義を表明している。『繻子の靴』の守護天使がプルエーズに語る、「罪さえも役に立つ」という言葉はこうしたオプティミズムへの、作者の加担の証左ともみなせる。しかし、クローデルは本作においてカトリシズムの擁護に終始しているわけでない。むしろ『繻子の靴』が提示するできごとは、最悪とは何かに関するみごとな例証である。「最悪は必ずしも確実ではない」は、クローデル自身の公準ではない。

この点をお断りした上で、サルトルのフローベール論にこの命題がどのように登場するのかを記しておく。

『家の馬鹿息子』第一部は、フローベール家の所産としての少年ギュスターヴを初期著作の分析を通して描く。なかでも6「父と息子」および7「二つのイデオロギー」は重要である。「父と息子」の最初の章では、「汝何を望まんとも」「地獄の夢」「フィレンツェのペスト」「情熱と美徳」「この香を嗅げ」「愛書狂」などの小説が取りあげられ、この章を閉じるにあたり、サルトルは十三歳のギュスターヴによる断片「地獄の旅 Voyage en Enfer」に戻っている(「始まりによって(本章を)締め括ることにしよう Nous finirons par le commencement」注1)。この頃(中学時代)、ギュスターヴは文芸新聞「芸術と進歩 Art et Progrès」を創刊した(執筆者は彼ひとり)。「地獄の旅」はここに掲載されたが、現存するのは数葉の断片のみである。その結末は、当時のギュスターヴのペシミズム(先に引用したライプニッツ的最善観がオプティミズムと呼ばれるのとは対照的な意味での)をよく示している。

注 1 L’Idiot de la famille (Gallimard, 1988)  Tome Ⅰ, p. 325.

《―Montre-moi ton royaume, dis-je à Satan.

《―Le voilà!

《―Comment donc?

《―Et Satan me répondit :

《―C’est que le monde, c’est l’Enfer.》

(「おまえの王国を見せてくれ」と、私はサタンに言った。「ここがそうさ!」「どういうことだ?」 するとサタンは答えた。「この世が地獄なのさ」)

この世界を前にした時のギュスターヴの態度――「地獄の旅」が明らかにするような――について、サルトルは次のように述べている。

“En ce qui concerne notre auteur, après cette étude rétrospective qui prouve la sincérité profonde et l’ancienneté déconcertante de sa désolation, de son ennui, de son pessimisme et de sa misanthropie, il semble prouvé que naître à cette époque, dans cette famille et y naître cadet, c’était tomber dans un piège mortel. La tache de la jeune victime était d’intérioriser dans le déplaisir les contradictions de ce produit transitoire et mal équilibré : un groupe semi-domestique fondé et dominé par un mutant dont l’enfance avait été paysanne et qui avait saute d’un coup dans la couche supérieure des classes moyennes avec le titre de《capacité》, conservant en lui ce mélange détonant : des traditions rurales et une idéologie bourgeoise. en ce sens l’enfant que nous avons rencontrés à travers ses premiers ouvrages n’est rien d’autre que cette famille elle-même, en tant qu’elle est vécue par un de ses membres, défini a priori par la place qu’il y occupe, comme la substance réelle de la subjectivité commune. Or ce membre, détermination de l’intersubjectivité, saisit en lui le vécu comme damnation pure et simple, il fait en vivant l’expérience de l’impossibilité de vivre. Comment cela peut-il être? Comment ce rejeton d’une famille heureuse et prospère en vient-il de si bonne heure à haïr l’espèce humaine, à commencer par lui, à voir dans tous les hommes des victimes et simultanément des bourreaux? D’où vient qu’il ait eu, de si bonne heure, 《un pressentiment complet de la vie》, ce qui signifie à la fois qu’il a considéré toute existence humaine comme un Destin et qu’il a décidé que le pire était toujours sûr? ” (L’Idiot de la famille (Gallimard,1988) Première partie : La constitution, Ⅵ. Père et fils, A. Retour à l’analyse régressive, p. 329-30)

「その悲嘆、倦怠、ペシミズム、そして人間嫌いが深く真摯で驚くほど古いことを証明するこの遡求的研究を終えて、私たちの作家について見ると、この時代のこの家庭に生まれること、そこに弟として生まれることは、致命的な罠に陥ることであったと証明されたように見える。若い犠牲者の務めは、過渡的で不安定なこの所産の諸矛盾を、不快さのうちに内面化することだった。この所産とは、一つの半家父長制的集団――農民としてその少年期を送り、《有能》の称号とともにひと飛びに中流階級上層へ移行し、農村的伝統とブルジョワ的イデオロギーの、この爆発性混合を自己のうちに留めているミュータント(注2) によって創設され、支配された半家父長制的集団のことである。この意味で、初期作品を通して私たちが出会った子供は、この家族それ自体である――この家族が一人のメンバーによって生きられる限りで(このメンバーは家族に占める位置によってアプリオリに、共同主観性の現実的実質として規定される)。ところで、間主観性の規定であるこのメンバーは、自分のうちにたんなる純粋な劫罰として生体験(生きられたもの)を把持し、生きながらにして、生の不可能性を体験する。どうしてこんなことがあり得るのか。この幸せで恵まれた家族に芽吹いた新芽が、これほど早い時期から、自分を始めとして人類を憎み、あらゆる人間のうちに、被害者と同時に加害者を見るに至るのはどうしてなのか。これほど早い時期から、「人生の完全な予感」――それは彼が、あらゆる人間的存在を一つの宿命とみなしたこと、そして最悪は確実であると決めたことを同時に意味する――を彼が持ったのはどのようにしてなのか」。

注2 ギュスターヴの父アシル-クレオファス。

最悪は確実であるという若いギュスターヴの公準は、この記述の後でも繰り返し持ち出される。ギュスターヴ自身のテクストにあるかのように繰り返されるのだが、すでに見たようにこのフレーズは『繻子の靴』から採られたものだ。

回転ドアや負けるが勝ちなど、フローベール論の重要な概念の中にはジュネ論に起源を持つものもある(実践的惰性態のような『弁証法的理性批判』由来の概念ももちろん活躍している)。フローベール論自体が大部なのでこれを言うのははばかられるのだが、先行する著作を合わせ読むことで『家の馬鹿息子』のおもしろさが増すことはたしかである。

カテゴリー: ジャン・ジュネ, ジャン-ポール・サルトル, フローベール, ポール・クローデル | コメントは受け付けていません。

『くちづけ』(1955)

1955年、成瀬巳喜男は『浮雲』を制作した。前年に『山の音』『晩菊』が、さらにその前年に『夫婦』『妻』『あにいもうと』が、また1956年に『驟雨』『妻の心』『流れる』が撮られる。1955年を中心に戦後成瀬を代表する作品群が目白押しである。そしてその1955年、成瀬は『浮雲』に集中したのだろう、多作の監督としては珍しく、同年の作品にはオムニバス形式の『くちづけ』第3話があるだけだ。

その『くちづけ』が初めてDVD化され、今月東宝からリリースされた。
https://www.toho.co.jp/dvd/item/html/TDV/TDV31308D.html

第1話「くちづけ」(筧正典監督、青山京子主演)、第2話「霧の中の少女」(鈴木英夫監督、司葉子主演)、第3話「女同士」(成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演)からなる。

冒頭に 3話をまとめたクレジットタイトルがあり、主演者や監督の名は次のように同一画面に並んで登場する。エピソードごとのタイトルはこの時点では表示されず、物語の交代時に挿入される。

『くちづけ』が総題になっているものの、キスシーンを含むのは第1話だけだ。3つのエピソードに共通する登場人物はおらず、オムニバスとして3話がまとめられる理由は明示されない。考えられることのひとつは、恋の芽生え(1話)から婚約(2話)を経て結婚生活(3話)へという展開。だが、これはどうでもいい。

各エピソードは異なる監督によって分担されている一方、カメラ(山崎一雄)、美術(中古智)、音楽(斎藤一郎)などのスタッフは同一で、演者、ストーリー、ロケ地、セットはそれぞれ異なっていても、一編の作品を見るようである。それも一編の成瀬作品を。

第1話の大学キャンパスや多摩川を行くショット、第2話の商店店頭や室内のショット、第3話の東京郊外の医院や通りのショットなど、第3話は成瀬監督だから当たり前だが、既視感がある。

なかでも第2話「霧の中の少女」がよい。東宝はこのところ積極的に、成瀬巳喜男や川島雄三らによるめったに劇場で見ることのできなかった作品を初DVD化している。今月は『くちづけ』の他に成瀬『浦島太郎の後裔』(1946)と『妻の心』(1956)、さらに鈴木英夫監督、司葉子主演の『その場所に女ありて』(1962)をリリースしている。「霧の中の少女」は同じ鈴木英夫と司葉子の組み合わせ、ただし『その場所に女ありて』に先立つことおよそ7年という興味深い作品である。

銀座を舞台に広告代理店の辣腕エージェントたちの “しのぎ” を描く『その場所に女ありて』とはまったく異なり、「霧の中の少女」の舞台は会津の質朴で温かな半農半商一家のすまい。夏休みである。東京の大学に通っている長女(司葉子)は帰省中だ。妹(中原ひとみ)と小さい弟がいる。父(藤原釜足)は母(清川虹子)の尻に敷かれていて、祖母(飯田蝶子)は藤原の実母なのにむしろ嫁の清川と息が合っている。一家の夏の生活の描写は、彼らが小規模にやっている雑貨屋の店先やその向こうに見える通りの様子などを含めて、成瀬作品に出てくるそれである。肯定的な(粗暴な兄は不在で、自然光のもとでのびのびしている)「あねいもうと」だと言ったらわかってもらえるかもしれない。

『あにいもうと』(1953)。戦後成瀬作品の中ではロケーション撮影の占める割合が大きく、商店街から川べりの農道を経て浦辺粂子がやっている半露天の茶店へ続く行程を、様々なシチュエーションと人物の組み合わせで撮り分ける変奏曲的な撮影、および庭と通りに向かって大きく開け放たれた田舎家の座敷内を対角線上に深く捉える撮影(そこであにといもうとの乱闘が起こる)によって特徴づけられる。「霧の中の少女」。そのロケーション撮影も室内撮影も『あにいもうと』ほど凝ったものではないが、ある時は畑仕事中の、ある時は居間での、清川と藤原の微笑ましいやりとりや飯田蝶子のひょうきんなふるまいを捉えたショットは成瀬調である。「霧の中の少女」にさいわい粗暴な兄はいないものの、霧の中で姉を追う中原ひとみの「おねーちゃーん」の声は、『あにいもうと』の日暮れの通りに響く久我美子の「おねーちゃーん」を彷彿させる。ただし中原ひとみの方はよりからっとして肯定的である。

司葉子もみずみずしい(本作の最初のショットでは弟と水遊びをしていて、ホットパンツ(のようなもの)をはいている)。しかし、「霧の中の少女」が中原ひとみを指しているだけのことはあり、これは彼女のための映画である。

中原ひとみ(1955)

物語の一部とショットのつなぎ方を紹介しようかと思って書き始めたが、長くなってきたのでやめる。おもしろく、映画史的に重要な作品なので、ぜひ多くの人に見てほしい。なお蛇足ながら中原ひとみの愛称がバンビであったことを書き添えておく。

バンビ

カテゴリー: 中原ひとみ, 成瀬巳喜男, 映画 | コメントは受け付けていません。

リヴェット「デュエル」の音

リヴェット映画祭で上映中の「デュエル」の魅力の一つはサウンドトラックにある。オープニングタイトルに重なる街の音声がすでに聞き捨てならない緊張感を持っている。そして、クラブ “ルンバ” のピアニストであり、いるはずのない場所に亡霊のように現れて即興演奏する音楽家(ジャン・ヴィエネル)のピアノの響きがとりわけ美しい。

ヴィエネルは1920年代から映画音楽を数多く手がけてきた作曲家で、ブレッソン「少女ムシェット」「バルタザールどこへ行く」の音楽も彼の仕事だ。「デュエル」における彼のピアノは、クレジットにある通り、撮影時の即興演奏である。冒頭の深夜のホテルの場面(夜勤のエルミーヌ・カラグーズと、ロード・クリスティの足跡を追ってホテルを訪れたジュリエット・ベルトが、がらんとした食堂で対話する場面)にも彼はいて、ピアノを演奏する。だが死すべき者カラグーズはこの演奏に気づいておらず、ヴィエネルの姿はたぶんベルトだけに見えている。「デュエル」でピアノが響く時には演奏者も必ずその場面にいる。よくある映画音楽の場合のように、ピアノはショットの外から聞こえているわけではないが、このことに気づくことができるのは観客と二人の女神たちだけである。こうした特異な手法で扱われるヴィエネルの演奏は、リュプチャンスキーの冴えざえとした映像と重なることで本作の大きな魅力となっている。

競馬場の馬券売り場に集まった人たちのざわめき、水族館での対話、バカラのディーラーのかけ声、ジャン・バビレに接近するビュル・オジエのくぐもった笑い声、クラブ “ルンバ” の鏡がバビレの超自然的な力によって砕ける音、このできごとに続いて身分を明かすベルトとオジエの誓約の声などなど、「デュエル」は聞き捨てならない音に満ちている。デジタル・リマスターによって蘇った繊細な音声が本作の独自性をあらためて明らかにしている。

カテゴリー: ジャック・リヴェット, 映画 | コメントは受け付けていません。

サルトル「家の馬鹿息子」邦訳

昨年はフローベール生誕200年だった。サルトルのフローベール論「家の馬鹿息子」(じっさいは、フローベールの初期作品および書簡、「ボヴァリー夫人」というテクスト、フローベールを知る人々の証言、19世紀フランス社会のあり方(特に当時の言語状況)を分析しながら、「ボヴァリー夫人」はどのように成立したかを解き明かそうとする論考)の日本語訳第5分冊が昨年12月に刊行された。版元はこれをもって「馬鹿息子」の邦訳完結を謳っているが、原著には未完に終わった「ボヴァリー夫人論」(「馬鹿息子」全体の真の結論)のためのノートが収められており、150ページほどのこの草稿部分は訳出されていない。とはいえ本文の日本語訳完結は喜ばしい。

第5分冊刊行直後に日本語訳全冊と原書を入手し、いま半ば(第2部Ⅱ「中学」)まで読み終えたところ。読了し、その気になったら何か書くかもしれない。「馬鹿息子」は類例のない、きわめて重要な論考だが、おそらく容易に理解されないだろう。

先のエントリーにリンクをあげた「ジャック・リヴェット映画祭」オフィシャルサイトのリヴェット紹介を読んで、彼がルーアン生まれであることを知った(”Out 1″ 最終エピソードの舞台がノルマンディーだとは聞いていた)。フローベールと同郷である。

カテゴリー: ジャック・リヴェット, ジャン-ポール・サルトル, フローベール | コメントは受け付けていません。

ジャック・リヴェット映画祭

ジャック・リヴェット映画祭!

https://jacquesrivette2022.jp/

「セリーヌとジュリーは舟でゆく」「デュエル」「ノロワ」「メリー・ゴー・ラウンド」「北の橋」の5作品。「デュエル」「ノロワ」「メリー・ゴー・ラウンド」は国内劇場初公開である(この3作のデジタル・リマスター版は、2015年にアロー・フィルムズから発売されたソフト「ジャック・リヴェット・コレクション」に英語字幕つきで収録されているが、日本語字幕つきで視聴できるのはありがたい)。

ヒューマントラストシネマ渋谷では4月8日から28日という日程で上映され、その後日本各地を巡回する予定。なおヒューマントラストシネマ渋谷では続いてシャンタル・アケルマン映画祭が予定されている。こちらも楽しみだ。

カテゴリー: シャンタル・アケルマン, ジャック・リヴェット, 映画 | コメントは受け付けていません。

サーク『アパッチの怒り』(1954)

NHK・BSPで8月28日(金)午後1:00〜2:20放送予定。

同年に製作された『異教徒の旗印』は昨年日本語字幕付きDVDで発売された。サークの1954年作品にはまた『心のともしび Magnificent Obsession』がある。

カテゴリー: ダグラス・サーク, 映画 | コメントは受け付けていません。