Farnace

ヴィヴァルディ『ファルナーチェ』は作曲家のこのジャンルを代表する。この曲を聴き始めて、シンフォニア=序曲をどこかで聞いたことがあると思う人も多いはずだ。シンフォニア三楽章のうち最初の二曲は『テンペーのドリッラ』のそれとほぼ同一である(ファゴットパートの扱いに違いはある)。『テンペーのドリッラ』のシンフォニアは、第三楽章が『四季』の「春」第一楽章と同内容、かつ主題を引き継いで次のコーラスを導入することで知られる。『ファルナーチェ』のシンフォニアとは本編への導入の仕方が異なるのが面白い。なぜこの二つの性格の異なる作品で、冒頭だけ同じ音楽が用いられたのかは不明である。

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マスク

仮面ではない。サニタリーマスクの話である。

ある超一流のオーケストラには非常に顔が大きなヴィオラ奏者が属している。あまりに顔が大きいので、ヴィオラがヴァイオリンに見えるほどである。私はこのオーケストラのサブスクリプション配信を視聴しているが、当初、このヴィオラ奏者のショットが映されると、一瞬第二ヴァイオリンパートかと戸惑った。もちろんすぐ誤りに気づき、ヴィオラ奏者にも注目するようになった。

先日私は近所のスーパーマーケットに日用品の買い物に出かけた。その一階には薬局が入っていて、商品を並べた棚の一部が下りのエスカレーターから見える。あるコーナーがすっからかんになっており、張り紙らしきものが貼ってあるので見に行ってみた。マスクは一人(一家族)に一品という断り書きだった。先客の女性が本日最後のマスクと思しきパッケージを手にレジへ進む。その方が支払いを終えた後、レジ係の店員さんにマスクの在庫がないか念のため尋ねると、たった今売り切れたとの返答。すると先客の女性は、少し申し訳なさそうに私を振り返り、もし緊急に必要ならこちらの商品をお譲りしようかと言った。彼女の口もとを覆っているのはピンク色のぴったりとしたマスクであり、今買ったばかりの商品もそれと同じタイプであった。ピンク色の「小さめ」である。私は丁重にこの申し出を断った。

ありがたい心遣いに感謝しながらも、先客にピンク色の「小さめ」を譲る意志が本当にあったのか、訝しく思いもした。私はあの超一流のオーケストラのヴィオラ奏者ほどには大きな顔をしていない(それほどの顔なら先客も「小さめ」を提供しようなどとは思わなかったはずである)。またピンクのマスクは、それをかけたくないとまでは思わないにせよ、私には似合わない気がする。しかし、このことについてはそれ以上考えなかった。

花粉アレルギー持ちなのに、容易に予測できたマスクの供給不足も予測せず、手元の在庫も切れていたのだが、今朝近所のもう一軒のスーパーマーケット(イトーヨーカドー)でマスクの販売があった。朝九時の開店少し前から三十人ほどの人が並んでいた。私もそれに混じって、三十枚入りのマスク(普通サイズ)を購入した。少しずつ供給が再開されつつある様子なので、間違ってもネットで売られている不当な高値の商品に手を出すべきではない。

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『ショックプルーフ』を見て『眠りの館』を再考する

『ショックプルーフ』は素晴らしいフィルムだ。サークには珍しいボニー&クライドもので、このジャンルの代表作の一つと言ってよい。ただしラストのあっけないハッピーエンディングはサークならでは。ラング作品と比較するなら、『暗黒街の弾痕』に『真人間』のテイストが加わっている。

前半、二人の男の間で揺れるパトリシア・ナイトがよい。DVDで見直していて、彼女の両義的な(どちらとも取れる)しぐさと表情はサークの演出によるのではないかと思った。ナイトはそれほど芸達者ではない。あまり表情を作らず、服を替えたり、脚や胸元を見せたりするシーンが多い。つまりそこに出てくるという印象が強く、サークは小津同様、できるだけヒロインに演技をさせないよう努めているふうだ。ナイトは放っておいても謎めいた顔立ちなので、これを生かしたのかもしれない。本作のシナリオで彼女が置かれた苦境と切なさが伝わってくる。よい演出だと思う。

それで『眠りの館』のコルベールでも、ひょっとしたらサークは同じやり方を試みたのかもしれないと考えた。コルベールには「もっと自分に演じさせてほしかった」という悔しさが残ったかもしれないが、サークの方は、あのシナリオのもとで余計な演技をしないコルベールを撮ってみたかったのかなと。

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サーク『眠りの館 Sleep, My Love』(1948)

ノワールの秀作。だがヒロイン、クローデット・コルベールが適役かと言えば疑問がある。夢遊病や妄想とは縁がなさそうな面持ちだからである。ヒロインに好意を持つ青年(ロバート・カミングス)が彼女の心の病について疑いを持つのは、そのオープンな明るさゆえなので、この点では意味のある配役かもしれない。しかしそれではどうして犯人は、はなから信用されない計画(「クローデット・コルベールが夢遊病? まさか」)を考えついたのか。愚かだったから。よろしい、そういうことにして先に進もう。

ハリウッド時代のサーク作品には、このヒロインでよいのかとはらはらするキャスティングがいくつかある。『天の許したもうものすべて』のジェイン・ワイマン、『風と共に散る』のローレン・バコール、『間奏曲』のジューン・アリスンなど。見終われば他の女優を想像しにくくなるので、そこが監督の手腕なのだろうが、サークがこの人たちを最初から望んで撮ったのかという点には疑問が残る。たとえば『風と共に散る』で石油王の娘を演じたドロシー・マローン(本作でアカデミー助演女優賞を受けて注目され、翌年やはりサーク監督作品『翼に賭ける命』でヒロインを努める)のような、ヒロインの座を脅かすほどの存在感を持つ若手の出演を想起してほしい。製作会社としては作品が当たる起爆剤は多い方がよいのだろうが、ベテラン女優がヒロインを演じる作品に、その人を食ってしまいかねない若手を起用することは監督にとってリスキーだろう。『眠りの館』にもそういう若手が登場する。ダフネを演じるヘイゼル・ブルックスである(ロッセン『ボディ・アンド・ソウル』(1947)のアリス役)。

『眠りの館』の場合、コルベールとブルックスは丸っきり対照的な役を演じる(前者はニューヨークの富裕層出身で、生家の豪邸に会社経営者の夫とともに暮らす妻、後者は場末の写真館に務める日の当たらないモデル、また物語の進行とともに二人は敵対関係にあることも明らかになる)。ではそれぞれ異なる持ち味を出し合って作品の出来に貢献しているかと言えば、私にはそうは思えない。ブルックスには存在感があるが、こんな女性が名もない写真館にくすぶっているとは信じがたいし、コルベールはコルベールであんなにお粗末な罠になぜあれほど簡単に落ちるのかわからない。

にもかかわらずこの映画は面白い。それも一見ミスキャストと感じられるクローデット・コルベールが面白いのである。冒頭の衝撃的な列車のショット(寝台車の個室でわれに帰ったヒロインが、対向して走ってくる列車のライトを窓越しに浴びる)。構図もカメラもみごとなのにかんじんのコルベールに切迫感がない。この列車で彼女はボストンに到着する。ニューヨークの自宅のベッドで就寝したはずの自分が、なぜ、どのようにして列車に乗ったのか、まったく記憶がない。ところが、心配しているだろう夫のもとへ帰るフライトでは、空港で知り合ったばかりの青年(カミングス)の話に夢中になり、ディナーの約束までする。コルベール演じるヒロイン以上に、見ている私たちの方が彼女の夢遊病を信じられなくなるが、ともあれ画面の中の幸福そうな彼女には魅力がある。

本作は最初の三分の一くらいで犯人をばらす構成になっている(なぜなら犯人の計画があまりにお粗末なので、おのずとばれるに決まっているからである)。よってこの先の記述にネタバレが少々含まれても問題はない。本作でコルベールが特に引き立つ場面は、自宅にメガネの男を迎え入れるところと、中国式結婚式のくだりとであろう。メガネの男は、犯人が彼女の狂気を証拠づけるために用意した「幻」なのだが、今そこで会話したばかりの人間をだれが自分の妄想などと思えるだろうか。コルベールはもちろんこれを否定する。「たしかに私はその人を見たの、さっきまでこの部屋にいたのよ」。こう訴える彼女には自分が妄想を抱いたという疑いなど微塵も感じられない。この影のなさ。明らかにこれは彼女の演技力の賜物ではなく、シナリオの欠陥による。だが、そんなことはどうでもいいではないか。コルベールの持ち味がしっかり捉えられてさえいれば。

中国式結婚式というのは、ロバート・カミングスの義理の弟の結婚式のことである。なぜここにニューヨークの中国系アメリカ人コミュニティの描写があるのかわからないが、魅力的な場面である。彼女は五加皮酒(メロンの皮から作られた酒)をたくさん飲み、新郎新婦と披露宴の列席者を祝福する。この振る舞いを見てカミングスは、彼女が心の病に侵されているという一部の人たちの言葉を疑い始める。コルベールの表情には、たしかにカミングスをしてそう思わせる説得力がある。ただしこれも彼女の演技の結果ではないのだが。

本作が優れたノワールである理由は、先述した衝撃的なオープニング(コルベールの表情を除く)から、写真館(すぐ裏の高架を走る列車のライトと音の扱いがとてもよい)、モデル=ダフネの登場、ダフネと犯人の密会、メガネの男の暗躍、犯人の計略に追い詰められていくコルベールなどの陰影に富む描写を経て、ニューヨークのコルベール邸の階段(サークならではの階段である)でのクライマックスへ進んでいく手際にある。実際、コルベールがあんなに幸福そうでなければ、この映画はもっと当たった可能性がある。しかし、立派なノワールでもあり愉快なコメディでもあるような映画は稀であろう。そんな作品はサークくらいにしか作れない。

 

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サーク『丘の雷鳴』

基本的に修道院のセット内で撮られた室内劇。洪水によって避難してきた近隣住人と彼らを支える修道女の、数日間の生活が描かれる。本当は明日の刑執行が予定されていた死刑囚の若い女性が、手錠もかけられずにわずか二人の警官によって護送され、洪水のため修道院滞在を余儀なくされるというのはいかにも雑な設定だが、そのおかげで素敵なメロドラマが始まる。ただし、メロドラマとは言ってもヒロインであるシスター・メアリ(クローデット・コルベール)の媒介つき。ここが本作のとてもよい点だと思う。なぜかと言えば、洪水によって閉鎖空間となった修道院内で、延期された刑執行を待ちつつ、女性死刑囚がその恋人と二人だけでメロドラマするのは難しく、シスター・メアリがあれこれ余計な介入をしなければ話が進まないわけだが、彼女が介入するからこそサーク流メロドラマの仕組みが明確に示されるからである。自力で無実を証明するのはほぼ不可能である恋人たちは、シスター・メアリの助力にすがるが、修道女はこのため次から次へと障害に直面することになる。サークの後年の映画でも恋の成就を妨げるものの多くは旧弊な考え方から抜けられないコミュニティの住人たちだが、本作ではそういうコミュニティが自然災害時の閉鎖空間に凝縮しており、それがシスターの邪魔をする。カメラは修道院の内部空間をセットらしさがわかりすぎるように撮っているが、その抽象性がよい。塔の内部に入るのに普通のドアを開けるだけとか、ラストシーンの壮麗な階段をなぜもっと早く生かさないのかとか、余計な批評精神を持たずに見るのがコツである。たいへんよい作品だ。

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応亮(イン・リャン)の短編映画(2008-16)

中国の若手映画作家、応亮(イン・リャン)の短編4作品がアテネフランセで上映された(クリス・フジワラの「現代映画とは何か?」の一環として)。洗練された映画的形式と、日常生活を貫く政治的暴力の生々しい表現を両立させる力量に感嘆した。

「薬」(2009年、白黒)冒頭のいくつかのショット(練炭を火鉢にくべ、そこに鍋を乗せる手のアップ、火鉢が置かれた部屋で立ち働く少女を玄関の方向から見るショット、180度の切り返しで、祖母が病で臥せっている奥の部屋から玄関とその向こうの通りを見るショット、祖母が床に転がす湯呑のアップ、火鉢のある部屋の棚から新しい湯呑を取る少女)は、一見古典映画の佇まいである。飾り気のない室内、少女が身に着けている質素な服、火鉢と薬の鍋、湯呑といった白黒の画面に見合った素材が鮮烈に捉えられ、かつ力強くカッティングされる。玄関側の部屋と奥の寝室だけの簡素な共同住宅の構造は、シンプルな数カットの編集と少女の動きによって明瞭に提示される。

通りでやかましく遊ぶ子どもらに、少女が「おばあちゃんが病気だからうるさくしないで」と呼びかけるショットは、少し湾曲した通りに沿って玄関が並ぶ平屋の共同住宅を右手に見て、通りを縦に深く捉えるローアングル。室内と屋外の情景を少女の言葉と振る舞いで繋ぎ、共同住宅の外観をローアングルのディープフォーカスで撮るところも、このように言葉にすると教科書的に感じられるだろうが、絶妙である。

通りでやかましく遊んでいた子どもらは「川で犬が泳いでいるぞ、見に行こう」と言って去る。一人が振り向きざま少女を遊びに誘うと、彼女は「おばあちゃんの薬を煎じているから」と断るが、次の一瞬、突風が玄関のドアを閉め、弾みで鍵がかかってしまう。

ここから映画は少女の行動とできごとの展開に沿って躍動的になる。鍵は玄関側のガラスのない格子窓越しに見えるテーブルの上にあるが、少女の手は届かない。たまたま通りにいた何人かの大人たちに玄関を開けてくれるよう訴える少女の頼みはことごとく拒絶される。彼らはそれぞれ自分の用事にかまけているようだが、それほど急を要するようには見えない。祖母の病気、夜勤で今夜は帰らない母、少女のささいな頼みごとにさえ耳を貸さない大人たちという、映画が繰り返し取り上げた素材があらためて鮮烈な仕方で示される。

少女に救いをもたらすのは近隣に住む少年である。彼もまた自分の父親に傘を届ける用事を理由に一度は少女の頼みを断った。しかも彼は、ほんの少しの間少女の言い分につきあって時間を浪費したため、父親からひどく殴られて帰ってくる。帰路相変わらずドアを開ける手立てがなく、火鉢の上で薬がどんどん煮詰まっていく様子を見て、少年がついに取った策は、玄関脇の木を登って平屋の住宅の屋上に昇り、裏口から祖母の寝ている奥の部屋に入って、気づかれぬように玄関を開けるというものだった――これは少年の一連の行動を通して観客に示される。この解決の鮮やかさは、冒頭の数カットで伏線として与えられていた住宅の構造を、運動の線によって結びつけているところにある。しかもこの運動の線は、映画の前半でわたしたちが見た、少女の頼みごとへの大人たちの拒絶の頑固さ、すなわち他人の問題のために動かぬことの対極にある。これは映画の形式に乗っ取った解決であり、かつ日常生活の中にある暴力性へのひとつの抵抗である。

ただし「薬」が取り上げた日常の中の暴力と、「アイ・ラブ・レイカーズ」(2008年)が描いた学校と家庭のそれには日付けがない。これに対して「慰問」(2009年)と近作「ある晴れた日」(原題「九月二十八日・晴」、2016年)とは、現代中国における具体的な暴力に取材している――これによって前2作に内在していた応亮の政治性がいっそう明確になった。

「慰問」は冒頭の記録映像を除いて、ワンシーン・ワンショットの作品である。満員の乗客を乗せた路線バスが川に転落した事故で夫と息子を失った婦人のもとに慰問にやってくる市長たちと、彼らを迎えるために葬儀の準備をする現場監督、TVのクルーらの振る舞いが描かれる。画面の両側に通路を挟んで粗末な共同住宅の入口があり、奥に祭壇らしきものがしつらえられた露天の空間が広がっている。手前のじめじめした狭い通路は光も弱いが、祭壇には日射しが降り注いでいる。通路に椅子がひとつ置かれ、観客に背を向けるかっこうで女性がそこに腰かけている(できごとの進行とともにこの女性が遺族だとわかる)。

現場監督はなぜか葬儀の準備に焦って大声をあげている。その理由は到着した市長に向かって部下たちとともに盛大な拍手を送ることで明らかになる――監督は遺族のために葬儀の手はずを整えていたのではなく、市長を出迎える場をセッティングしていただけなのである。遅刻して現れた坊主が形だけの読経をする中、監督たちの拍手で迎えられた市長一行は、女性に対して短いお悔やみの言葉をかけ、市の事故対策と遺族支援に関する長広舌を振るう。女性の返答は切れ切れの「謝謝」。続いて市長らは行列を作って共同住宅を見学する。彼らが発する言葉からわかるのは、一人だけ残された女性は単身者用住宅に移され、そこで生活保護を受けるということである。

市長たちが去ると、今度はTVクルーが取材の「仕上げ」にかかる。お決まりの遺族への質問に婦人が答える術もなく黙していると、インタビュアーの女性はあきらめたようにカメラを止めさせ、しばらくして婦人が「夫と息子は(雨漏りのする)屋根を修理することになっていました」と語り始めると、もう一度カメラを回させて、彼女の語りとは無関係な質問をする。

行政とメディアを含む体制の暴力が、事故をきっかけに一市民の生活に踏み込んでくるさまを描写することじたいについては、ありふれているという評価もあり得る。しかし映画作品の評価にあたって忘れるべきではないことは、主題なり素材なりがどのような形式によって表現されているかであり、またその作品がどのような系譜に位置づけられるかである。応亮監督が本作とほぼ同時期に撮った「アイ・ラブ・レイカーズ」と「薬」とは、作中のできごとに具体的な日付けがないとはいえ、共同住宅の生活、貧しい暮らし、家庭、学校などに滲み出てくる暴力を、強力かつ繊細な表現形式によって捉えている。「慰問」もこうした系譜に位置づけて見ることができるし、そのとき本作においてワンシーン・ワンカットという形式に圧縮された体制の暴力が、たしかに悲惨な事故のような非日常的契機によって顕在化するとしても、じっさいには日常生活に遍在していることが明瞭になる。

近作「ある晴れた日」は、こういう応亮の仕事の特徴がもっとも見事なかたちで現れている作品だ。香港のモダンなアパートに長年暮らしてきた元高等学校長の65歳男性は、3人の子どもがそれぞれ自立し、また最近妻に先立たれて独り暮らしをしていたが、持病の薬を間違えて服用するようになってから、高齢者用ホームへの入所を考えている。2014年9月のある晴れた日曜日、一番下の娘がやってくる。日曜の昼、父と外食する習慣なのだ。屋上のプライベートエリアでくつろいでいる父の周囲に、鉢植えがないことに気づいた娘がそれについて問うと、父はホームの件を少し話す。これを遮るようにインターフォンが鳴って、若い2人のボランティアが入ってくる。福祉サービスを受ける人たちにインタビューし、記録映像を残している彼らの活動に、父はかつての教育者として協力することにしたのである。

いっぽう娘は、この日予定されているオキュパイ・セントラル主催の民主化要求デモに参加する予定でいる。デモ隊と警官隊のにらみ合いはこのところ緊張度を増しており、まさに一触即発の状態だった。彼女のケータイにも逐次仲間からメールが届くので、父の家にそう長居してはいられない。その彼女の前でボランティアたちのインタビューが始まり、図らずも一家の歴史と現況とが父の口から語られるのを聞くはめになる。

その場を抜け出し、メールの連絡を見て父の家を後にした彼女だったが、途中で考え直して引き返し、キッチンの材料を集めて簡単な手料理を作り始める――昔母が料理をしながら聴いていたショパンのカセットテープをかけて。ボランティアのインタビューを終えた父は、娘の様子を見て「クラシック音楽と料理。母さんのようだ」と漏らす。

食卓で娘の手料理を味わっていた父に、娘はインタビューに応じたこと、ホームへの入所を考えたことなどの理由を尋ね始める。教育者としての信念や最近独り暮らしが不安になってきた事情などを口にする父に、娘はその仕事のせいで、働き盛りのころの父と自分は顔を合わせることもめったになかったと非難する。少し休みたいと答えて、自室に引き上げてしまう父。残された娘はかつての自室(父の寝室の隣りにある)に行き、しばらくして父の寝顔をそっと見る。

できごとをこのようにただ書き留めるだけでは、本作がある種の情緒的な表現を持ち味にしているかのような誤解をもたらすおそれがある。監督と作品の名誉のために断っておくと、そのような印象を与えたとすればひとえにわたしの表現が拙いからである。じっさいには、以上のできごとは俳優2人のドライな演技、余分な説明を排するカット、シャープなアングルと繊細なカメラワークを通して提示されている。父親とその家族の「歴史」も、インタビューの中、および父娘の短い会話を通して断片的に示されるだけである(観客が再構成しない限り、先に要約したような「前史」は明確にならない)。香港の市民生活の中に侵入している政治的な危機と混乱も、そのものとしては明示されない。

にもかかわらず、この短編作品がわたしたちにもたらす政治的な暴力の生々しさは圧倒的であり、父娘の今日に至る生活と現在の政治状況との密接な関わりが、父と娘双方の振る舞いを通して如実に表現されている点も驚異である。たとえば娘から、学生たちのために家庭を犠牲にして働いてきたと非難される父は、娘が現在それに参加している民主化運動の他ならぬ担い手を育ててきたことが、彼の言葉と行動を通してわかる。個別に見ればあたかもホームドラマのひとコマのようなショットが、積み重ねられて非常に多くの情報を持ち始め、それが香港民主化運動の現在と結びついていることが明らかになる。

父の寝顔を垣間見た後、娘は居間のTVを通して、警官隊がデモ隊に向けて催涙弾を放ったことを知る。起きてきた父もそれを見て、激しい抗議の声をあげる。作品を構成する多くの線が交わるこの場面で、本作はひとつの像を結ぶ。ここに描かれた民主化デモは、物語と並行する背景ではない。この家庭には今に至るまでずっと香港の政治状況が浸透していた。日常生活と政治的な暴力とは並行するのでなく、常に同時にそこにある――応亮作品が一貫して描いているのはこういうことである。

 

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『エレナ出口 Exit Elena』(Nathan Silver, 2012)

Nathan Silver 監督『エレナ出口 Exit Elena』(2012)を見る。スタンダード、カラー。3部構成で、上映時間は72分。

看護師の資格を取得したばかりのエレナは、ある中流家庭(アッカーマン家)の老婦人を介護する仕事に就く。家族構成は、高齢のため身体が不自由なロレンス、その息子ジム、ジムの妻シンディの3人。シンディがエレナに示していた条件は住み込みで、彼女は大きなスーツケースと絵画を抱えてやってきた(注)のに、夕食の席でジムは住み込みの話など聞いていなかったと言い出し、夫婦は口論を始める。

エレナは黙って食卓に向かい、言い争っている2人の間で居心地悪そうにイチゴをかじっている。ロレンス本人はエレナが気に入ったようで、ジムも結局シンディの説得を受け入れる。エレナにあてがわれたのは2階の小ぶりな部屋。そこへ引き上げてもくつろげずにいると、シンディがドアの向こうから、あらためて階下で飲み物でもどうかと声をかける。断るエレナにシンディは、「ドアをしっかり閉めてしまうと火事のときに危険だから」、緩く閉めておくように言う。

エレナを演じるキア・デイヴィスは大きな目が印象的な女優。第1日の以上の場面で、緊張気味の彼女の目は、終始警戒するように見開かれている。彼女の居心地の悪そうなまなざしと表情と身振りは、第2日以降もほとんど変わらない。会社役員らしいジムは自宅に事務所を構えているため日中も在宅しており、アッカーマン夫妻は何かにつけて言い争う。またシンディはエレナを家族の一員にしようといちいち近所づきあいやお茶に誘う。ロレンスの介護という仕事以外の日常的な義務が、エレナを拘束する。

彼女が近隣のカフェ店員と外食しようとすれば、シンディはだれとどこで会って何をするつもりかと、事細かに尋ねる。エレナは事務的に短く返答するが、さすがに苛立ちを隠さない。シンディが通うダンススクールへの参加を強要された時には、レッスンのばかげた様子にエレナもついに切れ、フロアを出てしまう。その彼女を追って来て、「あなたが外で待っているとわたしダンスを楽しめないわ」と当たり前のように言うシンディと、半泣きで煙草を吸うエレナ2人の顔を、カメラはアップで捉える。

本作のカメラはしばしば動き、顔のアップも多用される。しかしそれらは人物の表情やしぐさのわずかな変化を捉えるためであり、カメラの動きが饒舌に何かを付け加えることはない。またシンディの押しつけがましい一連の行動も、それらを前にいたたまれなくなるエレナの表情も誇張されることはない。これらはあくまでできごとを特徴づけるものとして捉えられ、そういう特徴をよりよく把握するためにカメラがパンしたり、クロースアップが使われたりする。この作品がおもしろい理由のひとつは、登場人物の表情、身振り、発話などの素材をきまじめなほどていねいに追いかけるカメラにある。

編集も入念に行われている。各エピソードは日付けのカットで区切られるだけでなく、個々の場面はショットやセリフなどによる説明を飛ばして、手短に繋がれていく。人物の表情の変化を追う前述のパンも、手堅い編集技術のおかげでまったく間延びしない。

第2話にはいくつかの重要なエピソードがある。ロレンスの入院、その間もアッカーマン家に滞在してほしいというエレナへのシンディの申し入れ、介護の仕事から解放された女性2人がワインを飲みながら少しだけ打ち解ける場面(ここでエレナが歌うユーゴスラビア語の歌を通して、彼女の出自が初めて示される)、そしてアッカーマン夫妻の息子ネイサン(監督自身が演じている)の登場。彼には知的障害があり、未知の人との会話において自分の行動を制御するのが困難である。少しずつこの家の生活になじんでいたエレナのまなざしに、第1日に見られたような緊張と不安と困惑が戻ってくる。ある夜アッカーマン夫妻は、エレナとネイサンを2人だけ居間に残して早々に寝室に引き上げてしまう。すると突然キスを迫るネイサン。彼を押しのけ、不快感をあらわにするエレナを追うカメラの動きは、ここでも正確であり、ある種の典型的な状況に見られる典型的な表情を捉えた映像とは別物である。この場面でエレナは、ネイサンと自分を2人きりにして引き上げてしまったアッカーマン夫妻の「配慮」に困惑しており、一方ではネイサンの対人行動の不調にも気を遣っている。それでももちろんいきなりキスを迫られれば驚きもするし、不快にもなる。このシークエンスを見る多くの観客もまた困惑せざるを得ないだろう。屈託のない観客はげらげら笑い出すかもしれないし、エレナ同様の不審と居心地の悪さを感じて不快になる人もいるかもしれない。わたし自身はこういう状況を作り出す脚本・演出・撮影に少し驚いた。第2話までについて言えば、本作はコメディと呼ばれてかまわないだろう。それにしてもそう手放しでは笑えないコメディである。

第2話と第3話は、エレナに解雇を申し渡すシンディのオフの台詞と、スーツケースを抱えて街へ出たエレナの姿によってつながれている。シンディは表向きエレナを家に置いておく経済的な余裕がないと言うが、同時にあの夜(ネイサンが彼女にキスを迫った夜のことである)、2人の間に何かがあったのではないかと仄めかす。その後映像は、行き場を失って職も見つからず、ホテル暮らしを余儀なくされるエレナの姿を捉える。

しばらく経ったある日、アッカーマン家に電話したエレナを、シンディはジムのバースデイ・パーティに招く。エレナはスーツケースをアッカーマン家の庭に隠して、パーティに参加する。そこにはやはりネイサンもいて、相変わらず場にふさわしい言動ができないが、エレナはもう気に留めるそぶりを見せない。その夜エレナはアッカーマン家に泊まる。観客が目にするのは同じベッドに並んで寝ているネイサンとエレナの映像である。ネイサンは寝汗をかいて眠りこけているが、エレナは目覚めている。シンディの足音が近づくのを聞いて、エレナは突然ネイサンの腕を自分の首に回していっしょに寝ているふりをする。2人の姿を見たシンディは、灯りを消してそっと部屋を出て行く。ネイサンの腕を外し、彼の汗を気持ち悪そうに拭うエレナ。映像はこの後、眠りに就くエレナの表情をいくつかのショットに分割して捉える。

その翌日、エレナはパジャマにショールを巻き、アッカーマン家の飼い猫を抱いて立ち去る。

この第3話を通じて、アッカーマン家とエレナの関係(とりわけシンディとエレナのそれ)はいっそう捉えがたいものになる。エレナにとって、もしかしたらアッカーマン家は最初から寄生のための格好の場所だったのかもしれないし、シンディから見たエレナはロレンスの介護者というよりネイサンのパートナー候補だったのかもしれない。またエレナはネイサンと同衾した夜、シンディの意志に屈したように見せかけて寄生を再開しようとしたのかもしれないし、たんにアッカーマン家の人々を弄んだだけかもしれない。いずれにせよアッカーマン家の人たちとエレナとの間にあったのは、前者が後者を困惑させるという作用のみならず、後者が前者の秩序を攪乱するという作用でもあったことが明らかになる。

非常に精緻に作られた作品であり、コメディとしての完成度も高いのに、観客から笑うタイミングを取り上げることに情熱が注がれており、映画にある種の緊張、屈託、異常、脱臼を求める人にはもってこいの映画である。

注 解雇されてアッカーマン家を出たエレナはもう絵画らしきものを携えていない。第1日の夜、疲れて自室で眠る彼女のショットの直前に、その場所が指定されない絵画(小鳥と修道士を描いたもの)のショットが短く映され、同じ絵は第3話でもう一度インサートされる。けっして何かを暗示するようなカットではないが、記憶に残る。ただし、この修道士の絵とエレナが第1日に携えていた絵との関係は不明。なお、エレナに与えられていたアッカーマン家の部屋が、かつてネイサンのものだったことは、はじめ箪笥(でなければコーナーテーブル)の上に置かれていて、エレナが気に入らずに机の引き出しにしまった2枚の写真への言及(第2話、エレナとシンディがワインを飲む箇所での会話)からわかる。

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金井嘉彦「『ユリシーズ』の詩学」

金井嘉彦「『ユリシーズ』の詩学」(2011)を読む。

「映画の詩学」と題された第Ⅳ部は、『若き日の芸術家の肖像』と『ユリシーズ』とがどのように初期映画の表現形式(制作手法と上映形式)を取り入れているかを論じている。

『スティーヴン・ヒアロー』を『肖像』に書き換えた時、すでにジョイスは当時の映画の表現形式を自作の技法に取り込んでいたと金井は言う。第一に、特定の場面・時点を中心とする描写と登場人物に沿った視点がもたらす、叙述の直接性と臨場性。第二に図像的な描写がもたらすエピファニーの前景化。ジョイスにおけるエピファニーとは「言葉や身振りの通俗性にであれ、心の記憶の相にであれ、突然姿を現す精神的な意味」である以上、それは具体的なものやことの描写を抜きにしては成り立たない。金井は『スティーヴン・ヒアロー』から『肖像』への書き換えがもたらした重大な変化の一つに、豊かな図像性をあげる。「『肖像』に散りばめられたイメージによって、細やかな感情や印象が、図像的な、形あるものの世界に移されるという意味において、映像性の高められた『肖像』の世界を、スティーヴンは図像を読み解きながら生きる」(p. 197)。第三に、演劇にはできない映画独自の技法の踏襲。『肖像』において演劇は最高の芸術形式という評価を与えられているが、にもかかわらず本作品には演劇が使うことのできない手法が採用されている――クローズ・アップである(注1)。金井はここにも『肖像』における映画の影響の大きさを認める。

『肖像』と映画の関係を論じる本書の立場に関して特に重要なのは、新たな芸術形式を生み出そうとしていたartificer としてのジョイスの映画に対する態度が彼の小説作品にどう反映しているか、という問いである。

「映画と『肖像』との関係を論じる際に注意しなくてはならないことは、単に『肖像』の一部を取り出し、そこがいかに映画に似ているかを技術的、還元論的に論じるのでは不十分であるということである。目を向けるべきは、映画がすでに「芸術」の一分野になろうとしているときに、小説家であり劇作家であり詩人でもある、アーティスト(artist)としてのジョイスが、自らをダイダロスに重ね合わせながらこれまでにない芸術を生み出すアーティフィサー(artificer)であろうとしたときに、意識せざるを得なかった映画という表現形式が、自分を取り巻く世界を認識し・映し出す最もモダーンな方式として彼の作品の中にどのような形で吸収されているかであり、映画の手法も取り入れつつ、映画とは違う「芸術」としての小説という形式を『肖像』においていかに主張したか、である。」(pp. 192-193)

『ユリシーズ』と初期映画の手法の関係をめぐって、本書の指摘はさらに具体的になる。
1) 第6章、ディグナムの埋葬に向かう馬車から捉えられたダブリン市街の描写と、ファントム・ライド(乗り物にカメラを乗せて街の様子を撮影する手法)。
2) 第7章、見出しごとに区切られたナラティヴと、リーダー(映し出されている画面のできごとについて説明するインタータイトル)によって区切られたサイレント映画。金井は複数の挿話とこれに呼応するリーダーからなる一本のフィルムという形式以外に、複数の異なる短編フィルムの連続上映がモデルになっている可能性を指摘する。根拠は初期映画がしばしばそのように上映されていたこと、および第7章が取り上げている題材と初期の短編映画のそれとの間の共通点である。本書の二つの仮説はともに説得力があり、興味深い(注2)。
3) 第10章とアクチュアリティ・フィルム(日常の諸相を描く映画)。
4) 第11章とレスキューもの。この章には、酒場の中のできごとと、ダブリンの街路で起こるそれ(モリーのもとへ向かう色男ボイランと音叉を取りに戻る目の不自由な調律師)を並行して描くクロスカッティング(並行モンタージュ)の手法が見られるが、これは事件の現場と救出に向かう人々とを並行して描くレスキューもののそれと類似している。
5) 第12章と多ジャンル性。この章の特徴は時間の多層化と文体の多様性にあるが、初期映画も短い、多様なジャンルの作品を組み合わせて上映されることが多かった。
6) 第15章とトリック映画および幻影映画。

こうした注目すべき一連の指摘に留まらず、金井は『ユリシーズ』に認められる反映画性にも言及している(第17章と第18章は映画化はほとんど不可能である)。『ユリシーズ』が積極的に映画の表現形式を取り入れていることと、反対に映画にできないそれを開拓していることとは矛盾するだろうか? 金井の答は否である。

「『ユリシーズ』に存在する映画的でない章は、純粋に――ということがあり得るとして――映画的でない可能性もあるが、映画という芸術形式を意識するがゆえに、映画という芸術形式に対抗して小説の小説らしさを主張した章、あるいはもっと大きくいうのであれば、映画という芸術形式がある現代において、小説の可能な形、あるいはあるべき小説の形を示した章、小説がまだ芸術として生き残る価値があることを証明するための反映画的な章として考えてみる必要がある。その観点からすれば、映画的でないことは、必ずしも映画的でないことを意味するのではなく、逆説的に映画的であることを意味する可能性がある。」(p. 231)

なお本書巻末の参考文献一覧には多数の初期映画に関する資料が含まれており、このジャンル(初期映画)の比較的新しい研究成果が踏まえられている。わたしには教えられるところのきわめて多い研究だ。実は本書を奨めてくださったのは金井嘉彦先生ご自身である。この場を借りて金井先生に厚く御礼申し上げます。

1 クローズ・アップはすでにポーター「大列車強盗」(1903)に見られるが、グリフィス「網を繕う人」(1912)によって映画技法として確立された。いっぽう1916年に刊行された『若き日の芸術家の肖像』は、1904年のエッセイ「芸術家の肖像」を出発点に、1905年には『スティーヴン・ヒアロー』として改作され、1912-1913年頃最終的なかたちを取った。つまり『肖像』の長期にわたる制作年月は、映画の表現技法が確立される時期とほぼ一致している。

2 よく知られているように、ジョイスは1909年にダブリン初の映画館ヴォルタ座を開いた。

 

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この映画のためにだけでなく

「すべての映画は演劇についての映画である。他の主題はない。(注)」(ジャック・リヴェット)

オリヴェイラ『フランシスカ』を特徴づける二重写しの表現は、この作品に特異的とみなされるべきか。それともオリヴェイラの諸作品を貫くもっと包括的な表現形式(オリヴェイラ様式とでも呼べるものの一つ)と関係づけられるべきか。わたしは後の立場を支持する。以下はその理由である。

『フランシスカ』の二重写しについては、すでに二つのエントリー記事で詳述した(本ブログのカテゴリー一覧で「マノエル・ド・オリヴェイラ」をクリックするか、本ブログの検索窓に「フランシスカ」を入力するとすぐに出てくる)。二重写しの表現とは以下のようなものである――ワンシーン・ワンショットの長回しの中で同じ台詞が二度繰り返される(冒頭の手紙のショット)、カメラが回り続けているのに人物の動きは停止し、映像に重なる台詞が先行する台詞の再現になる(海の見える室内に入って来たジョゼ・アウグストがきわめて冷たい態度でファニーを見つめるショット)、同じ場面を逆構図で連続して二度撮る(オーエン家の玄関でジョゼ・アウグストが花々を打ち据えるくだりと、ファニーの祭壇の前に立つジョゼ・アウグストの「愛」をめぐる長い語り)。こうした独特の表現がオリヴェイラの他の作品でも採用されたことがあるかどうか、わたしは知らない(わたしは彼のフィルモグラフィーの半分も見ていない)。本稿の主張は、二重写しの表現がオリヴェイラの他の作品に取り入れられたことがなかったとしても、それはオリヴェイラ作品を貫くある包括的な様式の一環と見て間違いないというものである。

オリヴェイラ作品を貫く包括的な様式の一つは、‟必ずしもその映画のためとは限らないパフォーマンスを撮る” ということである。ここでいうパフォーマンスは、通常の映画作品における演技を含み、それより広い外延を持つ。映画が演技の撮影であり得るのは当然であり、そうでなければ特に劇映画の制作は成り立たない。それだけでなく、ドキュメンタリーフィルムの場合でさえ、カメラを向けられた非俳優が演技をしている可能性はある。映画が作られていることがその場にいる人々に明らかなら、カメラはしばしばその作品用の演技を撮ることになろう。

これに対してオリヴェイラの多くの作品で、演技はそのフィルムのためになされるとは限らない。たとえば『春の劇』では、ポルトガルの寒村に伝わるキリスト受難劇を準備する村人たちのさまが撮影される。したがって被写体となる素人俳優たちは、まず自分たちの村の伝統演劇のために演じる。つまりカメラが捉えるのは、フィルムのための演技以前のパフォーマンスである。正確を期するために付言すべきは、『春の劇』ではフィルムの進行とともに受難劇の演技と映画のための演技とが入り混じっていくという事実だ。しかし、いまの議論にとっては以下の点を確認すれば十分である――『春の劇』に収められているパフォーマンスは必ずしも映画のための演技ではない。受難劇の演技とフィルムのための演技の混淆については取りあえず括弧に入れておく。

『春の劇』の冒頭には村の受難劇を見るために自動車でやって来た観光客の姿が映る。これを踏襲するように、冒頭観客の姿を映し出すのは『繻子の靴』と『カニバイシュ』である。この二作には前口上もあり、『繻子の靴』の場合は劇場に入って席に着いた観客たちを後部バルコニーから登場人物たちが舞台用のメイクと扮装で見下しさえする。ただしどちらの作品も文字通り舞台で演劇が上演されるわけではなく、あくまで各場面は劇映画の手法で撮影され、編集されている。とはいえこの二作が、撮影が進むそのフィルム以前に、自立的な構成を備えた演劇作品の上演を想定していることは明らかである。だから俳優たちは、映画と同時にクローデル作品またはジョアン・パエシュ作品のためにパフォーマンスを行う。このような表現形式をわたしはオリヴェイラ作品を貫く包括的な様式の一つとみなす。

これが「包括的」であることを明らかにするために、『アブラハム渓谷』と『神曲』を例に取ろう。『アブラハム渓谷』の世界は『ボヴァリー夫人』の枠組を借りてデザインされており、セシル・サンス・デ・アルバとレオノール・シルヴェイラ演じるエマは、このフィルムにおけるエマであると同時に、エマ・ボヴァリーと関係づけられた人物でもある。決定的なのは、デ・アルバ(少女時代のエマ)がフローベールの『ボヴァリー夫人』を読むショットと、シルヴェイラ(成長して社交界の男たちを惹きつけるようになったエマ)が「わたしはエマ・ボヴァリーではない」と断言する場面だ。なぜならこれらのパフォーマンスは、映画のための演技であると同時に、『ボヴァリー夫人』を指示する行為だからである。『神曲』の場合、いまの議論との関係で劇中劇構成を想起される読者もいるかもしれないが、わたしが取り上げるのはそれでなく、ピアニストとして作品世界に参加するマリア・ジョアン・ピレシュのパフォーマンスである。彼女は本作においてじっさいにピアニストとして演奏を披露している。すなわちピレシュは映画のためだけにでなく、音楽のためにパフォーマンスを行っている。とりわけ『神曲』ラスト、「ウィーンの謝肉祭の道化」のフィナーレの演奏は、いかなる意味でもフィルムに回収されはしない。こういう未回収の自立したパフォーマンスを擁しながら、それでも作品世界の統合が失われないことこそ、オリヴェイラ作品の驚異である。

必ずしもそのフィルムのためではないパフォーマンスを撮るという方法が、オリヴェイラの代表作に共通して認められることはすでに明らかだ。さて最後に示すべきは、『フランシスカ』の二重写しの表現がこうした様式の一環に他ならないということである。この点の論証は簡単だ。『フランシスカ』の俳優たちが、回り続けているカメラの前で動きを停め、後で重ねられるだろう台詞の反復のための時間を沈黙して過ごすとき、彼らは何をしているのかを考えるだけでよい。そのとき彼らは、この映画のために演技をしておらず、むしろ演技を中断している。もっと正確に言えば、彼らは『フランシスカ』という作品の制作過程を、作中で演技する俳優の位置からではなく、監督、カメラマンと同様の位置に立って観察している。つまり彼らのパフォーマンスは、たんに映画用の演技ではない。

こうして『フランシスカ』の二重写しの表現が捉えるパフォーマンスは、映画のためにだけ行われた演技ではなく、映画が制作しつつある世界を指示する行為であることがわかる。ふつうの映画製作の現場で、同じ場面が何度か撮り直される局面を想起してほしい。そこで俳優は映画のために自分にできる最上の演技を披露しようとするだろう。しかし、『フランシスカ』の現場では事情が異なる。同一の場面の別テイクがそのまま『フランシスカ』の世界を制作することになるからであり、あるいは演技を中断することがパフォーマンスの一部となるからである。

 

注 “tous les films sont sur le théâtre; il nʹy a pas dʹautre sujet”:J. RIVETTE, Cahiers du Cinéma n° 204, septembre 1968.

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映画の思考について、または『ざ・鬼太鼓座』について

1

プラトンの対話篇『メノン』に出てくる有名なエピソードは次の通りである――ソクラテスは対話の相手に十二、三歳の少年を選び、三平方の定理をまだ教わっていない彼にいくつかのヒントを与えることを通じて、彼自身に独力でこの定理を再発見させる。ここからソクラテスは、人間の知識x(ここでは幾何学の定理という、アプリオリに真であることを正当化できる知識)が、xとして人から人に伝えられるのではなく、論理的な手続きに従いさえすれば独力で見出されると言う。つまりxは教えられるのではなく想起される。

このテクストでは、対話を構成する命題は、一定程度意味を限定された概念から組み立てられ、古典論理に従い、概念は他の概念と関係づけられ、命題は他の命題へ変形される。つまり対話は言表と論証の進行過程である。この過程において、ある種の思考が表現されていることは明らかであるように思われる。概念が取り上げられ、その意味するところが整理された上で、それらを組み合わせた命題が論理的に(主に三段論法に従って)変形され、妥当な結論に至るからである。ところで、テキストに表現されているこうした思考を、テキストの思考と呼ぶことに何か問題があるだろうか。

概念を関係づけたり命題を変形したりしているのはソクラテスと少年であり、対話を書いた著者プラトンだから、慣習に従えば考えているのはこれらの人々である。しかし、これらの人々の思考内容は『メノン』というテキストに記された言葉がなければ読者に伝わることはない。むしろテキスト内の言葉さえあれば、思考の伝達には十分である。

さらに次のことを付け加えるべきだろう。「著者」プラトンさえも、『メノン』のかの対話を書き記しながら論証の正当性を確認したはずだ。言い換えれば、頭の中にできあがっていた一連の対話をそのまま言葉に変換したわけではなく、対話を通じて概念と命題を検討しながら論証を進めたのである。プラトンに従えば、このような思考過程も真なる知識を呼び出す一種の想起であるが、この主張が妥当であるかどうかを別としても、人が言葉を記しながら(一般化すれば記号を操作しながら)思考するという事実に違いはあるまい。そうであるならば、テクストに書き記された言葉も思考なのであり、言葉によって定着され得る「観念」の運動のようなものだけを思考として特権化する理由はない。わたしはもちろん記号化以前の「アイデア」の存在や価値を否定する者ではない。そうではなくて、思考をテクストの彼方に求める態度は思考を神秘化していると言いたいだけである。

したがって、『メノン』のかの対話は言葉という記号によって間接的に思考を表現しているというより、端的に思考していると言うべきである。数学の論文を想起しよう。定義された概念と構成された式と式の変形という記号過程を指して思考であると言うことに反対する人はいないはずだ。数式の「含意」、つまり数式という記号によって表現される意味にこそ思考がある、という反論に対しては、わたしはそれをも思考と呼ぶことにやぶさかではないが、そうした含意以前にまずテクストが思考していること、この事実に関して記号表現と意味内容を分離する理由などないという点を確認しておきたい。

日常言語を用いたテクストは、数学論文に比べれば曖昧な要素を多く含むが、『メノン』のように思考の実例に他ならないテクストを想起すれば、使用される記号を問わず、テクストが一般的に思考の実践であることに変わりがないことは明らかである。ではこうしたテクストの思考という観点を、さらに一般化することはできないだろうか。

できるというのがわたしの考えである。音楽という、テクスト(すなわち楽譜という記号表現)を持ち得る表現形式を考えよう(持ち得る、と言う理由は、楽譜が音楽の必要条件ではないからである)。楽譜には音高・音の長さ・リズム・旋律・和声等々の指示があり、わたしたちはそこからたとえばリズムと旋律の反復とか異なる複数の旋律の重なりなど、音型の配置やそれらの関係を読み取ることができる。ところでいま楽譜の例をあげたのは、先に言及した言語テクストとの類似を見るのが容易だからである。楽譜を見なくても、わたしたちはサウンドイベントとしての音楽表現の中に、音型の配置と関係を聞き取ることができる――この曲は速い三拍子だ、さっきのメロディが戻ってきた、など。

さて、先に『メノン』の例からわたしが言語テクストの思考という主張をした根拠は、『メノン』が意味を限定された概念と、いくつかの命題から構成されていて、これらの間に論理的な関係が認められるということだった。もう少しわかりやすく言えば、『メノン』というテクストは人がものを考えるやり方の一例ないしモデルだということである。『メノン』を取り上げた理由は、対話という形式と提示されている論証が思考のモデルとして明快だからに過ぎない。同様の主張はカフカの『審判』によってもできるが、こちらのテクストの思考モデルは、『メノン』のそれほどわかりやすくはない。

音楽表現の基本的な構成要素(音高・音程・音の長さ等)はと言えば、概念同様、一定程度限定されている(言葉で表現される概念に比べ、はるかに判明である)。そしてこれらの構成要素の組み合わせから得られる音型(リズム・旋律・和声)はいくつかのパターンに分類でき、音型相互の関係も容易に認められる(たとえば同一性と差異性、類似性、調性の関連性、反復、変形等々)。西欧古典音楽について言えば、そこには体系化された規則さえあり、たとえばいくつかの和音の連なりはカデンツ(終止形)のルールに導かれて特定の和音へ収束する。先に見た言語テクストのような古典論理の規則にはもちろん従わないけれども、音楽表現にはそれ固有の規則が適用され得る。以上を根拠に、ここでも言語テキストと同様の主張をしてよいというのがわたしの意見である。つまり、ある種の音楽表現は思考である。

言語テクストが思考する、という主張までは受け入れるという人の中にも、音楽表現の思考といういまの主張を退ける人がいるだろうことは容易に予想できる。私見では、そういう人は慣習にとらわれているだけである。たしかに思考という言葉の濫用は有害だ。たんに言語表現とか音楽表現などと言えばすむことについてまで、ことさら思考などと言う必要はない。では言語や音楽について思考を持ち出すことにどんな意義があるのか。記号化されていない「アイデア」、「観念」の神秘化をやめるという意義である。記号が表現するものであるということに文句をつける人はいないだろう。問題は、その同じ記号が「たんに」表現するものだという思い込みである。これに対してわたしは、記号は表現すると「同時に」思考すると主張している。表現は思考内容を指示するとともに、それ自体思考内容でもあり得る、という言い古された主張を繰り返しているに過ぎない。

音楽表現が思考し得る、という事実に首肯していただけたなら、映像表現はどうだろうか。これが本節の主題である。結論を先に言うと、ある種の映像表現は思考する。

この結論は、先に論じた言語表現と音楽表現の場合と同様に容易に導けるが、多少問題になるのは映像表現における基本構成要素の同定が比較的むずかしいことかもしれない。ここでは映画を取り上げよう。単純化のため音楽と音響をかっこに入れることにすると、光の強弱・形態・色彩…といった抽象的な映像構成素を想起する人もいるだろう。しかし、映画の画面をこうした光学的な構成素に分解してもあまり意味はない。そんなものだけを見る観客はどこにもいないからである。音楽表現の場合には、音高とか音程といった音の物質的特性がダイレクトに近いかたちで聞き手に届くのに対して、映画の映像表現はいくつものレイヤーからなっており、わたしたちが鑑賞するのはしばしば上位の(あるいは表層の)、経験的な意味づけをほどこされたそれなのである。つまり、人物の形姿・容貌・表情・まなざし・身振り・身体的運動・風景のパターン等々。わたしは映画の記号として、あえてこういう上位のレイヤーを満たしている構成要素を取り上げたい。たしかにこれらは曖昧な概念である。わたしたちは画面に映し出された一人の人物のアップと、背景の風景とを合わせ見て、しばしばそこに形態と色彩のコンポジションを認めているからである。しかし、それでもわたしたちが経験的な意味のレイヤー(人物と風景とをその上で識別してしまう意味付与の認識パターン)を離れることはないだろう。

こうした「基本」構成要素を認めるとしても、それらの間の関係を、言語表現や音楽表現の場合のように明確化できるだろうか。経験的な意味づけのレイヤーを想定すると、むしろ容易にできるというのがわたしの解答である。映像の型としてたとえば顔のアップ、バストショット、フルショット、(風景の)ロングショット、二人の人物を交互に捉える切り返し等々を想定することが可能になるのは、わたしたちがすでに人物・表情・まなざし・風景といった基本要素を前提に画面を見ているからである。だからある人物の顔のアップが繰り返されれば、観客はそこに同一者の反復を認めるし、前半に登場した風景とは対照的な風景が後半に登場すれば、それらの間に少なくとも関連性を見出す。つまり映像の型の間には類型化可能な関係があり、そうした関係の間には一定のルールが見つかる場合も多い。したがって、言語表現や音楽表現の場合と同様、映像も思考できる。

注意してほしいことは、ここで言う映像の思考と、いわゆる映像が語るメッセージなるものとは別物だという点である。わたしが論じているのは一貫して記号表現そのものであり、記号表現の向こうにある(らしい)メッセージなどという幻影ではない。『メノン』について、わたしはたしかに「想起説」という命題を取り上げた。しかし、そこで問題にしたのは概念と命題の関係であって、あえて言うなら結論の「想起説」そのものはどうでもいいのである。同様に、ワーグナーの楽劇を構成するライトモティーフ群が何を表わしているのかといったこともどうでもよい。どうでもよくないのは、それらのモティーフがどう配置され、どう展開し、相互にどう関連づけられるのかということである。映画の場合もこれと同じであり、ある映像なり音声なりがどのように構成され、組み合わされ、相互に関係づけられ、配置されているか、これらを指してわたしは映画の思考と呼んでいる。映画作品を通して語られる物語なり主題なりの意義を否定するわけではないが、そういったものは本稿が論じている思考とはまったくの別物である。

2

以上の議論は、どのような映像作品がどう思考するのかを具体的に示さなければ説得力を持たないだろう。そこで加藤泰『ざ・鬼太鼓座』を取り上げる。本作ほど映画の思考とは何かを明らかにする作品は少ないからである。本作は座員のパフォーマンス(たしかにそれ自体強烈な身体表現であり音楽表現である)のたんなる記録ではなく、身体と音楽の表現を記号として活用する思考である。というのは、本作に登場する個々のパフォーマンスは、インサートカットを介して切れ目なく結びつけられると同時に、各パフォーマンスの途中にも細かいカット割りとインサートカットが含まれ、全体として編集の織物になっているからである。ことは映像の編集に留まらない。太鼓や三味線が「生演奏」される場面でさえ、しばしばシンセサイザー(一柳慧)によるポストプロダクションが加えられている。しかもこうした編集の織物には支柱となる物語がほとんどない。たしかに作中で雪の佐渡を走る座員たちの姿が繰り返されたり、彼らの生活風景や会話の一端が示されたりはするので、それらを通して鬼太鼓座メンバーたちの生き方と表現のドキュメントを再構成することはできるだろう。しかし、フィルムそのものはそういう物語的収束点をいっさい提示していないことに注意してほしい(Akatukiyami氏の論考が指摘している「青春映画」としての結構も、通常の意味での物語の不在を前提に言われているからこそ重要である)。

本作品の記号は、通常の映画とは少し異なるレイヤー上にある。どういうことか。第一に、映像を構成する鬼太鼓座のパフォーマンスの特異性。太鼓や三味線を演奏する彼らの技術は超絶的であり、演奏に際して彼らの身体は普通の人間のそれとは異なる運動を示す。また「櫓のお七」という、文楽の様式を人間の身体で表現するパフォーマンスでは、お七を演じる女優は人形の動きを模倣し、そのまなざしを虚空にさまよわせる。彼女の背後には黒子たちが付き従い、その一挙手一投足を操っているかのように見える。ところがそのお七が、佐渡に実在するらしい大きな櫓を昇り始めると、黒子の手を離れて勝手に運動を始めてしまう――ただし人形の動きはそのままに。これらの映像を見るわたしたちは、人間の身体・容貌・表情から構成される経験的なレイヤーを一段降りなければならない。そこでは人間と人形の身体が区別されず、人々は普通の社会生活の様式を離れて踊り、歌い、太鼓を演奏し、金北山と日本海の荒波を背に走り、彩色のない柱を晒した神社、洞穴につながる橋、人影の少ない街路、あるいは対照的に七十年代的なアーケードなどでパフォーマンスを行なう。

第二に、これはAkatukiyami氏の指摘にもある通り、映し出される人物のまなざしの特異性。フィクション作品では、人物とカメラの視線が映像表現の重要な軸の一つとなる。またドキュメンタリー作品においても、人物は何かに視線を向けているし、会話の場合であれば互いに視線で何ごとかを語っている。もちろんドキュメンタリーのカメラは、できごとなり人物の動きなりにたいてい注意深く対峙している。ところが本作では、しばしばカメラはあらぬかたをさまよい(たとえば演奏の途中で人物の首筋のアップのカットが挿入されたり、万華鏡に映った花札が出てきたり、風景の中の人物のショットになったりする)、映し出されている人物たちも、特に楽器を演奏しているときには虚空を見つめている(「櫓のお七」が人形のまなざしであるのはもちろん、インサートショットに登場する和服の女性たちも具体的な視線の対象を持っていない)。

こうした一階下のレイヤーに並んだ映像の構成要素から、わたしたちは何か映像の型の間の関係を認めることができるだろうか。できるからこそわたしは本稿を書いているのである。加藤泰は、本作において繰り返し、舞を舞い、楽器を演奏する身体と顔(表情というより顔)を映し出し、それらを編集している。異なる演目間で、わたしたちはそこに現れる身体・顔・装い・運動の様式的な類似(たとえば筋肉の極度の緊張、リズムとの同調、虚空を見つめるまなざしならぬまなざし)と対照(その最大のものは躍動そのものと化す裸体に近い男たちと風景の中をさまよう和服の女たち)を目の当たりにすることになる。これを記号の配置と関係と言わずして何と言えばいいのか。このフィルムでは、身体・顔・まなざしならぬまなざし・音楽とりわけリズムが、通常の経験が形づくるのとは異なるレイヤー上の記号として提示され、こうした記号は物語形式にも記録形式にも収束することなく、独特の様式にのっとって配置され、関係づけられている。つまりこのフィルムは独自の仕方で思考している。

パーカッションに目がない人なら(わたしはその一人である)、本作を視聴するうち座員の叩き出すリズムにこちらの体ごと乗せられてしまうだろう。しかし、本作の思考を受け止める快感はそれ以上のものである。よけいな物語性がそぎ落とされている分、ここで展開する思考は抽象度が高く、それがもたらす快感は強烈である。

オープニング近くに、汽船がゆっくり船着き場に入ってくるのを通路手前から捉えた素晴らしいショットがある。カメラ位置と船に渡すタラップの高さに対して通路は少し低く、幅広のシネマスコープ画面に映し出された無人の通路は湾曲しているように見える。フィルムが進むうちに、いくつかの舞台(神社の廊下や橋、荒地を含む)に横並びになる座員たちのアングルと、先の船着き場のショットが響き合っているのがわかる(カモメが飛ぶ空とも)。櫓を昇るお七の垂直運動とは対比的だ。このように、本作ではいくつかの場面を支える構図も、演奏される演目を横断して呼応する関係にある。『ざ・鬼太鼓座』をたんなる記録作品として見てしまう過ちの理由は以上のようなものだ。

シナリオが重視される劇映画でも、物語るのとは別の仕方で、すなわち撮影と編集、美術と音楽を通して映画は思考できる。加藤泰こそ、劇映画のジャンルにおけるこのような思考の、最良の演出家の一人だった。本作はこの意味で加藤泰のフィルムであり、加藤諸作の中でも最高度の密度を持った作品である。

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