カテゴリー別アーカイブ: ペッツォルト

Tschuldigung

鷗外の時代の帝大生が、なぜ Mädchen を「メッチェン」と表記していたのか少し気になっていたが、今のドイツ人も Entschuldigung の最初の En を取った上で「チューリ(グ)ン」のように発音しているので、 … 続きを読む

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ポスト・メロドラマからファスビンダー、シュレーターへ

様式の成熟は新たな様式を準備する。映画のメロドラマ形式が50年代までに爛熟し、陳腐なステロタイプに見えるようになっていたとき、メロドラマの殻を破って、つまりこの形式の特徴を受け継ぎながらそれに甘んじない表現を伴って、従来 … 続きを読む

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擬似メロドラマとしての『めまい』

先にわたしは、映画のメロドラマ形式の特徴として、恋の結末(成就であれ悲恋であれ破局であれ)に至るまでの間の冗長な迂回(しばしば恋愛そのものよりこれを邪魔するものが描かれる)をあげた(「ペッツォルト『あの日のように抱きしめ … 続きを読む

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ペッツォルト特集編集後記

一週間前の日曜日に “Phoenix”(邦題は『あの日のように抱きしめて』だが、これを書くたびにイラっとする)を見て、その後思い浮かんだ泡沫をまとめて書いた。埋草のようにシュレーターが混じっている … 続きを読む

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ブランデンブルク

アルスラン、ペッツォルトら、ベルリン派と呼ばれるドイツの現代作家たちの作品のタイトルを見ていると、しばしば製作支援団体の中に “Medienboard Berlin-Brandenburg” の名 … 続きを読む

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クルーゲ「愛の実験」(Ein Liebesversuch)

ペッツォルトが『あの日のように抱きしめて』を撮る上で強い刺激を受けたと証言しているクルーゲの短編「愛の実験」(Ein Liebesversuch, 1998年)は、グラフィック・デザインを施されたカラー字幕の連続的なカッ … 続きを読む

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越境と映画(再びペッツォルトへ)

戦後ドイツ映画は、戦争を顧みる時にも国家と社会の現在に目を向ける時にもしばしば国境と向き合ってきた――前者の場合、『リリー・マルレーン』のように敵と味方を分かつ断絶あるいは侵略と反撃の前線として、後者の場合、『雨の中の銃 … 続きを読む

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越境と映画

越境するということが、たんなる抽象概念としてでなく映像を伴う記憶としてわたしたちのもとにあるのは映画(実録であれフィクションであれ)のおかげである。もちろん戦争と貧困が現実にその渦中に置かれた人たちにもたらしている越境の … 続きを読む

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ドイツで撮ること

ペッツォルトへのインタビュー(『あの日のように抱きしめて』――原題はPhoenix――パンフレットに所収)によれば、すっかり変貌をとげて収容所から戻ったかつての妻を、それと気づかず自分の覚えている妻の姿に変えようとする男 … 続きを読む

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ペッツォルト『あの日のように抱きしめて』――映画のメロドラマの系譜における

劇映画におけるメロドラマは、恋愛のはじまりやその帰趨(恋の成就または挫折)の表現によってではなく、結末に至るまでの迂路によって特徴づけられる。恋するふたりはさまざまな障害に直面する――事故やすれ違いなどの偶発事、恋敵の横 … 続きを読む

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