カテゴリー別アーカイブ: 哲学

丹波哲郎

わたしは説得力のない人が好きだ。 世の中には根本的に説得力のない人がいる。そうした俳優の代表格こそ丹波哲郎である。

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not exactly doing things

スタンリー・カヴェルの「反哲学と〈声〉の質入れ」(A Pitch of Philosophy: Autobiographical Exercises, Harvard University Press,1994――中川雄 … 続きを読む

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「エメラルドの軌道に」(パウル・ツェラン)

「エメラルドの軌道に」はパウル・ツェランの死後に刊行された詩集『時の屋敷』(1976年)に収録されている(制作されたのはおそらく1969年)。わたしは中村朝子氏訳『改訂新版 パウル・ツェラン全詩集Ⅲ』(2012年)ではじ … 続きを読む

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ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画」紹介

ミリアム・ハンセンは、主著『バベルとバビロン』(Babel and Babylon: Spectatorship in American Silent Film, Cambridge, Mass.: Harvard un … 続きを読む

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恐るべき子ども

ジェイムスンの記事を通して、クルーゲがまたとんでもないことをしていたのを知った(Fredric Jameson, “Marx and Montage,” New Left Review 58, 2009)。マルクス『資本 … 続きを読む

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再び映画の記憶としての習得について

最近論じてきた「習得される記憶」という概念について、私の説明不足による誤解があり得ると思うので、若干補足したい。 「持続的再認(映画を見ている間、観客がほぼ無自覚に行っている、記憶したばかりの事柄の連続的な想起)」との比 … 続きを読む

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映画経験の現象学の必要について

先に「映画の記憶のカテゴリーとしての習得について」というエントリーを掲げた理由のひとつは、映画を見る経験についての探究と、この(探究の)枠組みにおける「想起の体制の分類」の必要を感じていることにある。 このブログで映画理 … 続きを読む

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アヴェロエスの「知性単一論」

アヴェロエス(1126-98)は実人生においても哲学史においても数奇な運命を辿った哲学者だ。新プラトン主義経由の読解からアリストテレスを解放する徹底的な彼の注解は、そのほとんどがラテン語に翻訳され、盛期スコラ学の基礎を築 … 続きを読む

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ドゥルーズによるウェルズ考

Mr.Arkadin に関する昨日のエントリのついでに、ドゥルーズがウェルズにおけるカエルとさそりを論じた L’Image-temps の第6章を拙訳でどうぞ。「ウェルズとニーチェ──生、生成、間違いの権能」 … 続きを読む

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パゾリーニの「ポエジーとしての映画」について

パゾリーニの「ポエジーとしての映画」(1965年。「映画理論集成」(1982年、フィルムアート社)に塩瀬宏氏による邦訳が収録されている。以下本論文の引用は塩瀬訳による)は、映画による自由間接話法はいかにして可能か、という … 続きを読む

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