月別アーカイブ: 11月 2013

映画におけるイメージの屈折と観念(2)

映画における観念を作品に登場する語りが観客の知性に訴える効果(たとえば作中の思弁的な対話に導かれて観客が映像を解釈する内容)とみなす通念を退け、先の考察でわたしが主張したことがらを要約すると次の通り。映画の観念とは、作中 … 続きを読む

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映画におけるイメージの屈折と観念(1)

ピアラの『悪魔の陽の下に』は、ベルナノスの解釈や神学的思弁といった意味での観念を扱ってはいないと少し前に書いた。その記事の中でわたしは、映画はどのようにして観念を取り上げるのかについてはっきり書かなかった。『悪魔の陽の下 … 続きを読む

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モーリス・ピアラ『ヴァン・ゴッホ』

ピアラの映画には長回しもパンも多いが、特徴的なのはひとりの人物の顔をアップで捉えたり、ふたりの人物をアップまたはバストで捉えたりしたショットを比較的細かくつなぐ編集である(対話、愛撫、性交――ピアラの映画には性描写そのも … 続きを読む

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悪魔の陽の下に

モーリス・ピアラの作品をまだわたしは3作しか見ていない。したがって無理解と誤解の可能性は大きい。それでも書いてみたいことがある。『悪魔の陽の下に』は、カトリックの教えや考え、また原作者ベルナノスの思想を含めて、いっさい観 … 続きを読む

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だれが駒鳥を

日本では『パタリロ』で有名になった “Who Killed Cock Robin” は、日本のミステリ・ファンの間では遅くとも1950年代から知られていたと考えられる。 なぜなら同じマザー・グース … 続きを読む

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ScanSnap SV600ーークチコミ分析の試み

プリンタ(スキャナ)が逝かれていた。数年前、緊急の必要が生じて近所のスーパーで買ってきた安物の複合機であったのに、長いことがんばってくれた――冥福を祈る。俄かに高まるScanSnap SV600熱。Amazon のクチコ … 続きを読む

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SchibbolethからIn einsへーー日付をめぐるデリダの議論

「合言葉 Schibboleth」(『閾から閾へ Von Schwelle zu Schwelle』、1955年)から8年後の『誰でもないものの薔薇 Die Niemandsrose』(1963年)には、Schibbol … 続きを読む

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今日はたしか

パウル・ツェランの誕生日だ。乳首麗しい。 Psalm と題されたツェランの詩を飯吉光夫氏の翻訳で掲げる(『誰でもないものの薔薇』所収の「頌栄」)。 誰でもないものが僕らをふたたび土と粘土からこねてつくる、 誰でもないもの … 続きを読む

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聖なる愛と俗なる愛――モーリス・ピアラ『ポリス』

モーリス・ピアラの作品ではすべてが同じ現前の平面上に乗っている。嘘と真、仕組まれた愛と真実の愛、俗なる愛と聖なる愛、等々。 『ポリス』。ドパルデューがシャンゼリゼで新聞を買いに行き、車に戻ってからソフィー・マルソーに迫ら … 続きを読む

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モーリス・ピアラ『愛の記念に』

光源と実物を振り返って見ることのかなわない、穴蔵に暮らす者どもが見ているのは壁に映る影絵に過ぎない、という洞窟の比喩は、その実物がさらにまた別の実物の影絵ではないとどうして言えるのか、という無限遡行の問いをもたらすので、 … 続きを読む

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