月別アーカイブ: 8月 2015

久我美子の時代

妙なところであふあふ堂を召喚したことは済まなかった。あやまる。設定は、なかなか『雪夫人絵図』が出てこないことをめぐる対話です。この作品を語る上では久我美子を措くわけにいかないので、あれこれ思案している。

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久我さん

「ボルジア屋」「なんでえ あふあふ堂か どうしてた」「なあに変わりはねえさ」「そうかい 変わり映えしねえってか あはは」「なに言いやがる そっちこそつまらねえ瓦版ばかり書き流しやがって 溝口はいいが雪夫人はどうした」「あ … 続きを読む

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『女優須磨子の恋』

溝口健二『女優須磨子の恋』(1947)は『歌麿をめぐる五人の女』に続く戦後第三作だ。新劇運動の先駆者島村抱月と女優松井須磨子の半生を描いているといえば、時代劇から現代劇へ再び戻ったのかと思われるかもしれない。しかし、ここ … 続きを読む

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『武蔵野夫人』

いまさらながら、『武蔵野夫人』(1951)はすごい作品だ。同年の前作『お遊さま』(大映)から製作会社が東宝に移り、カメラも宮川一夫から成瀬巳喜男の作品で知られる玉井正夫に引き継がれる。本作品での玉井のカメラは、武蔵野の景 … 続きを読む

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廃墟は一夜にしてならず

『歌麿をめぐる五人の女』を見たことがきっかけで溝口作品を見なおしている。昨日は『お遊さま』のついでに谷崎の「芦刈」を読んだ。その冒頭に出てくる水無瀬の宮をめぐってとりとめのないことを考えた。 水無瀬の宮は後鳥羽院の離宮で … 続きを読む

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「理想的な観客」などいないということ

限られた期間であれば、映画を年間300本前後見るという人も珍しくはない。映画作家または評論家が過去にそうした時代を過ごさなかったというほうがヘンであろう。しかし、批評でめしを食っている人はともかく、仕事に恵まれた監督が制 … 続きを読む

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谷崎「蘆刈」と溝口『お遊さま』

溝口健二『お遊さま』(1951)は谷崎潤一郎「蘆刈」に取材している。後者は能「芦刈」をモチーフの一つとしており、エピグラフ「君なくてあしかりけりと思ふにも いとゝ難波のうらはすみうき」も同曲からの引用だ。 能「芦刈」は、 … 続きを読む

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溝口健二『わが恋は燃えぬ』(1949)

ペッツォルトの新作について書いたときにうっかり忘れていたが、あの映画の中で形成外科医がニーナ・ホスの鼻の手本にしたのは(1945年の時点ですでに時代遅れになっていた)女優ツァラー・レアンダーであり、ホスの麻酔時のカウント … 続きを読む

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ペーター・カーン逝く

オーストリア出身の俳優・映画監督ペーター・カーン Peter Kern が26日、66歳で亡くなった。彼はニュー・ジャーマン・シネマの黄金期1970年代からドイツ語圏の多くの映画に俳優として出演し、特異な存在感を発揮した … 続きを読む

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『西鶴一代女』の空間

『西鶴一代女』の試みは、戦前から敗戦直後の作品に見られる空間の代表的な形式、たとえば郭・茶屋・芝居小屋・舞台・茶の間から女を解放することではないか。京の大路の渺漠たる風景は、『夜の女たち』で焼土の瓦礫(ロッセリーニに匹敵 … 続きを読む

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