月別アーカイブ: 9月 2015

テン

Windows7をVAIOノート(SSDのやつ)で使っていたが、MSさまが再三Windows10 を試してみなされと言うので、アップグレードしてみた(無償)。SONYからはドライバーの対応が間に合ってないからやめておけと … 続きを読む

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映画の思考について

先のエントリーでは、映画を構成するイメージ群の意味作用のうち、描写から独立し、複数イメージ相互の関係を通して自律的に作用したり、統合や集約に至ることなく問いを発し続けたりするもの、いわば意味作用の余剰分を「映画の思考」と … 続きを読む

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『女は二度生まれる』(2)

映画における思考とは、人物の台詞や物語を通して間接的に語られる作者の思想のことではなく、編集された映像と音声のテクスチュアとそれが生み出す意味作用のことである。映像と音声をそのように配列したのは制作者だから、当然それらの … 続きを読む

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ペッツォルトー溝口ーオフュルスー川島―シュレーター

川島雄三の『女は二度生まれる』については、約束した通り明日続きを書く。ここではアガンベンの収容所に関する記述を引き継いだ独り言を。 毎日のように思いついたことをメモしていると、不思議なことが次々に起こっていることに気づか … 続きを読む

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アガンベンが語る「収容所」について

90年代のジョルジョ・アガンベンが、フーコー晩年の二つの生政治研究の系列の、暗がりにおかれた交差点を取り上げたことはよく知られている。すなわち、国家が個人の自然的生への配慮を引き受ける政治的技術(全体化)と、個人が自分を … 続きを読む

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『女は二度生まれる』(1)

ローラ・モンテスを撮るオフュルスのカメラは残酷である。数知れない伝説とスキャンダルを背負って零落したローラは、自らの恋愛遍歴を描いたスペクタクルの主役をサーカスの舞台で演じる。自分自身の生涯を再現するだけではない。ダンス … 続きを読む

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「山鳩の歌」

モルゴーア・クァルテットと波多野睦美の演奏でシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番を聴いたのがきっかけで、今日は「グレの歌」をアップルミュージックで全曲聴き直した。小澤征爾とボストン交響楽団、タングルウッド音楽祭合唱団による … 続きを読む

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中世/古代の並列構文に関するアウエルバッハの指摘

先にアウエルバッハ『ミメーシス』のfigura(比喩形象)概念に触れた。同書の最初の五章には、この他にも古典語(ラテン語、ギリシア語など)を学ぶ者にとって興味深い指摘がある。十一世紀の古フランス語による叙事詩、「ロランの … 続きを読む

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高橋悠治、シェーンベルク、シューベルト(モルゴーア・クァルテットと波多野睦美ライブ、2012)

「柴田南雄著作集」が取り持つ縁で、旧友から大変素晴らしいCDを頂いた。モルゴーア・クァルテットと波多野睦美による高橋悠治、シェーンベルク、シューベルトのライブ録音である(二つの高橋作品のうち「無伴奏ヴァイオリンのための『 … 続きを読む

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芸術作品とそれが例示するもの

ネルソン・グッドマンは『世界制作の方法』所収の様式(style)に関する議論(第2章「様式の地位」、第4章「いつ藝術なのか」)において、芸術作品の様式を既存の二分法(様式と主題、形式と内容、「何」と「いかに」、内在的と外 … 続きを読む

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