悪魔の陽の下に

モーリス・ピアラの作品をまだわたしは3作しか見ていない。したがって無理解と誤解の可能性は大きい。それでも書いてみたいことがある。『悪魔の陽の下に』は、カトリックの教えや考え、また原作者ベルナノスの思想を含めて、いっさい観念を描こうとしてはいないのではないか、ということである。
『愛の記念に』(これこそどんな配慮も妥協もないピアラの映画だとわたしは考える)と『ポリス』には、ご覧になれば明らかなように、映像に含意やほのめかしはまったくなく、少なくともわたしは、目の前に現れる映像を愚直に受けとめ、その上で“わたしの”中に生じる観念を反芻することに集中できた。『悪魔の陽の下に』の場合も、映画はそのように撮られ、編集されていて、むろんわたしは先にあげた2作同様、のめり込んで見た。
しかし、よけいな心配をしたことも事実である。それは一部の観客に、この映画が映像・音声とその組合せの他に何か観念的な事柄を描いていると受け止められはしないだろうかということだ。
本作の中のいくつかのシークエンス(たとえば侯爵を襲うライフルの誤射に至るそれや、髄膜炎の子が死んだ家の中から門の向こうにドパルデューを乗せた馬車が現れるのを、子どもの母親が見守り、迎え入れるまでのそれなど)は、おそらく意図的に古典映画のカメラワークで撮られている(掛け値なしに素晴らしいことはたしかだ)。こうした普通の傑作の指標となるシークエンスの介在と、ベルナノスに由来する思弁的な物語とが本作に与えるバイアスのおそれはやはり否定できない。
いっぽう、この作品にはこれぞピアラだという感銘をもたらす、すごいショットがたくさんある。冒頭のドパルデューとピアラの対話、ボネールが最初に登場する際の蛇行するカメラ、泉の彼女の美しい脚と洗われる片方の靴、彼女がふたりの愛人それぞれと対話するときの執拗な食い下がり、ドパルデューの夜の彷徨(本稿の主張との関係で悪魔を出すのは遠慮したいところだが、いいものはいい)、石工と別れる際の石切場、ドパルデューとボネールが初めて出会って対話するシークエンス(特にツーショットをふたりまとめて180度切り返すときの衝撃)、『処女の泉』の掟破りの引用かと思わせる髄膜炎の子どもを高々と掲げるドパルデュー等々。しかし、あえて言いたいのだが、これだけ素晴らしいショットの数々をわたしはベルナノスの物語から解放してほしかった。
もちろんこれはわたしの方の勝手な注文に過ぎない。ピアラがこの素材で撮りたいと考えたことは尊重しなければならない。それでもやはり、この作品でカンヌ、パルムドールか、という感慨はある。
ちなみにわたしは観念を描いた映画の傑作を知っている。わたしにとってそうした作品の最高の規範はパゾリーニの『豚小屋』だ。ピアラの作品は、むしろパゾリーニの対極を行き、かつ彼の映像と音声に匹敵する感銘をもたらしてくれるということが、わたしにとっては稀有と思われる点なのである。したがって、もし本作を何か観念的・思弁的な意味で評価するような立場があったとすれば、わたしにはそうした立場は到底受け入れられない。

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