モーリス・ピアラ『ヴァン・ゴッホ』

ピアラの映画には長回しもパンも多いが、特徴的なのはひとりの人物の顔をアップで捉えたり、ふたりの人物をアップまたはバストで捉えたりしたショットを比較的細かくつなぐ編集である(対話、愛撫、性交――ピアラの映画には性描写そのものはなく、事後のふたりのさまを映し出すことが多い――、口説き、口論、喧嘩などのシーンでの切り返しや、異なるアングルからふたりを捉えなおすつなぎに代表される)。

『悪魔の陽の下に』『ヴァン・ゴッホ』などの作品で編集を担当したヤン・デデ(『悪魔』ではガレを演じてもいる)は、今回のピアラ特集に寄せて日本の観客宛に手紙を書いている(イメージフォーラムのロビーにその内容が掲示されている。わたしはまだ購入していないが、たぶんパンフレットにも載っているはずだ)。デデによれば、ピアラは小津、溝口、成瀬を好んで見て、彼らから学んだ手法を自身の作品にも生かしているという。アップないしバストショットのきめ細かなつなぎと、時々人物の行動に合わせて控えめにパンしたり寄ったりするカメラワークとの連携に大仰なところもむだもなく、スムーズに編集がなされているのは、日本のそれを含む古典映画の遺産をピアラが完全に自分のものにしているからなのだろう。

今回東京で集中上映された4作品には、対話の途中で突然一方が叫び出したり、意味不明の言葉を発したり、殴りかかったりするシーンがある。なごやかに思われた場面が急転直下愁嘆場に突入したり、ひとりの人物が突然それまでの発言や行動とは異なるモードに移行したりする表現手法は、ピアラの作品の主要な特徴である。こうした手法が決してドタバタ劇にならないのは、終始一貫して冷徹に人物を捉えるカメラと編集のおかげである。

これに加えてピアラの編集手法の重要な特質をあげると、突然の場面転換(鈴木清順作品でおなじみの手法)がある。『ヴァン・ゴッホ』には、パリとオーヴェールの間を何の説明もなしにひとつのカットで飛び越える場面転換が何度かある。ガシェ医師宅とオーヴェールの川辺での楽しい昼食を終え、汽車でパリに帰るテオ夫妻の姿を思い起こしてほしい。駅での別れ(夫妻が荷物と赤ちゃんに一瞬気を取られ、もういちど汽車の窓から駅舎を振り返ったときには、兄ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはもういない)と車内のショットが挿入されたら、汽車に乗って去っていく人物はしばらく登場しないというのが映画の伝統的な約束ごとだ。この作品でも、車内のテオ夫妻のショットの後しばらくはオーヴェールのできごとになる(ここまではふつうの映画の文法に則っている)。しかし、少し後で何の前ぶれもなくアパルトマンのドアを開いて室内に入ってくるテオ夫妻のシークエンスが現れる(観客は一瞬オーヴェールのできごとの続きであるように感じるだろう)。つまりカメラはオーヴェールのゴッホをほったらかしてパリに来てしまうのである。

先にあげた特にふたりの人物の間に起こるできごとを描写する際に多用される細かいカットに対して、こちらの場面転換のカットを、時空を飛び越えるその特質に注目して大カットと呼ぼう。パリなりオーヴェールなりの同じ時間と空間で展開するできごとを描き出すための小カット群は、長回しのショットをしばしば間に挟んで(川遊びのシーンにおけるヨーとヴィンセントの歩きながらの対話――このエピソードを停止に追いやるのは、ヴィンセントが対話の最中唐突に川に飛び込んでしまうショットである――や、麦わら畑の場面――最初はヴィンセント単独で、次にはマルグリットとの逢瀬のショットとして登場する――など)、なめらかと言っていい時間を生み出す。これに対して大カットは文字通りの切断である。しかし大カットがなされるその瞬間には、観客はまだそれが小カットのひとつかもしれないと思って見ている(それほど大カットは唐突なのである)。この瞬間の訪れがピアラの映画を非常に魅力的にしている。

『ヴァン・ゴッホ』を代表する大カットをあげておこう。それはパリでの馬鹿騒ぎの後、マルグリットとともにオーヴェールに戻ったヴィンセントが、宿屋の暮らしを再開したかに思える一連のショットに続いて突然やってくる――洗面台の鏡に向かって剃刀で髭を剃る彼の横顔のショットに続くのは、川辺のロングショットである(画面の奥からヴィンセントがふらふらしながら前景に向かって歩いてくる)。休日に娼婦たちをパリから連れて来る娼館のマスター(作品前半でヴィンセントにピストルを差し出してみせ、唐突な叫び声をあげて娼婦を驚かせていた)がヴィンセントの異常な様子に気づき、その血と傷を確認してから彼を抱きしめる。ヴィンセントは自殺を図ったのである。

作品のラスト近く、テオが駆けつけて宿屋で兄を看取る場面でも、ヴィンセントの死のショットは唐突にやってくる。しかもその後の宿屋の日常(おかみが地下室に通じる上げ蓋に足を挟み、介抱してもらう場面など)を描いたシークエンスでは、何事もなかったかのように流麗な小カットが駆使されているため、ヴィンセントの臨終など提示する必要はなかったと言わんばかりだ。ラストのマルグリットの場面と合わせて、見事と言うほかない編集である。

今回の4作はいずれも分厚いサウンドトラックを従えている。ただし『愛の記念に』と『ポリス』での音楽の使用は控えめだ(だからこそその音楽の効果が際立っているけれども)。これに対して『ヴァン・ゴッホ』は全篇歌と踊りに満ちている。オンの音楽(場面の中で流れる音楽)がこんなに魅力的に構図やカメラワークを導く映画もめずらしい。たとえばマルグリットが音楽教師からピアノのレッスンを受けている箇所では、カメラは最初鍵盤に向かう彼女を右斜め後ろから捉えていて、ピアノの左側には女教師が立っている。これでは演奏を楽しんでいるマルグリットの顔が見えにくいため、カメラはアップで彼女の顔を写さなければならないだろう。そこで次に入るショットは、女教師が立っているはずの側からマルグリットを捉えるアップである。しかし、このショットは女教師の視点から見下ろして撮られたものではない。音楽とマルグリットに惹きつけられて映画に入りこんできた、何者でもない何者かの視点によるショットなのである。ヴィンセントがピアノを弾くマルグリットをモデルに、窓の向こうの屋外に出て描くシーン(最初彼は窓の手前に立ってマルグリットを見ているが、絵を描く気になると窓を乗り越えて外に出て行く――このときのカメラワークがとてもいい)でも、彼はマルグリットにピアノを弾きつづけるよう指示する。ガシェ宅での昼食後マルグリット・アドリーヌ・シュバリエ婦人・ヨーが歌う「サクランボの咲く季節に」、オーヴェールの川辺での愉快なダンスと女教師による『ラクメ』のアリア(「魔法の鈴」)、テオ宅を訪れヴィンセントの絵を前に自作の曲を即興で弾く若きドビュッシーらしき人物、パリの娼館でヴィンセントとマルグリットが踊るワルツ、酔客たちのフレンチカンカンとおかしなパレード、それにバンドネオン奏者による澄んだ悲しい歌声による「赤い丘」(普仏戦争かパリ・コミューンにちなんだ反戦歌だろうか)等々、この作品には随所に音楽とカメラワーク、音楽と映像編集の連携が見られる。またラストのマルグリットの場面では、喪服の彼女が自宅を出た後も、彼女自身が弾くピアノ(前半のレッスンの場面とモデルの場面で彼女が弾くのと同じ曲)が弾き手を追いかけるかのように流れている。そしてエンドタイトルのコラール。

偉大な作品である。これを20年以上経って今“見直さ”なければならないわたしたち日本の観客の置かれた状況についても考えさせられる。

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