映画におけるイメージの屈折と観念(1)

ピアラの『悪魔の陽の下に』は、ベルナノスの解釈や神学的思弁といった意味での観念を扱ってはいないと少し前に書いた。その記事の中でわたしは、映画はどのようにして観念を取り上げるのかについてはっきり書かなかった。『悪魔の陽の下に』にもとづいてその一例をあげたい。

本作にはサンドリーヌ・ボネールのapparition(現れ、おばけ)の場面がある。小さな田舎教区の司祭館にドパルデューが到着した夜(またはそのしばらく後の夜)の、彼の質素な居室でのできごとであり、彼の驚きの表情に続くショットで同じ室内にボネールが出るので、これは典型的なapparitionである。このショットを単独で取り上げるとすれば、ボネールの幽霊が現れたか、ドパルデューの幻視のいずれかという解釈になるだろう。原則としてすべての映像が同じスクリーン上に現れる映画では、こうした映像の両義性は常態であり、取り立てて問題にすべきこととは思われないかもしれない。

しかし、このapparitionのショット(ボネールは侯爵とガレのもとを訪れたときと同じか、それに近い装いである)から振り返って、彼女と侯爵、また彼女とガレの対話の場面を見ると、それぞれの場面がはたしてじっさいに起こったできごとをそのまま描いているのか、それとも悪魔と遭遇した後のドパルデューが、彼女の心を読んだその内容なのかは判然としない。もちろんドパルデューが彼女の心を読んだということを前提にした話である。その場合でも、映画の中の映像がドパルデューの目を経由しているのか、それとも非人称のそれなのかという区別には意味がある。

普通の映画には、他人の心を読むというコードはない。しかしこの作品ではまさにそのコードの存在が、作中のボネールの映像の受け止め方を左右する。というのはドパルデューとボネールの対話において、彼はわたしたち観客には見えないはずのこと(彼が読み取っている彼女の心の中にあるもの)について言及し続けるからである。ドパルデューはすぐ後で自分の読んだボネールの心のありさまを語るのは困難だと述べている。したがって、彼が読んだ心を映像にするということ自体ナンセンスであるとも考えられる。

それでもapparitionのショットのボネールの姿には、たんにドパルデューが明け方に出会ったときの彼女の写し絵に過ぎないと考えるだけでは汲み尽くせないある“感じ”がある。

わたしが指摘したいのはいま述べた個人的な印象ではなく、ある種の映画では作中のショットを媒介にして、他のショットやシークエンスの再編成が起こるという事実である。こうした事態は、もともと映画のショットの位置価が両義的(実在あるいは非実在、真実あるいは嘘、現実あるいは幻等々)であり、どんなに強力なコードが導入されても映像の屈折は払拭できないということに由来する。わたしが言う映画の観念性は、ここから生じるものである。

ヒッチコックの『めまい』前半のラストで、スチュアートが塔から見下ろす死体がノヴァクのそれだと認知した観客にとっては、後半のノヴァクは亡霊か錯覚である。スチュアートはノヴァクが死んだと確信しているのに、なおサンフランシスコですれ違った方のノヴァクをかつて自分が愛した女だと思うのだから、このときの彼の試みは幽霊を蘇らせようとするようなものである。しかし、こうした試みが映画においてはしばしば起こる。

これがたんに映画を見ている者の主観によるとは言えない点に注意しよう。制作者の考えとは別に、映画の編集、その組合せが、映像の位置価の再編成を可能にする。ここに映画の観念性があるのであって、人物が語る台詞の内容や、脚本のメッセージなどを映画本来の観念性と混同すべきではない。

多くの場合人は夢に見た映像と目覚めて見ている映像を区別する。どんなに真に迫った夢でも、一度目覚めの経験(の意識)がその映像に刻まれると、それは実在しなかったことにされる。

映画の中では原則としてすべての映像が同じ資格で並列されるので、実在するものの映像かどうかを区別することはむずかしい。この区別のために使われる明示的な方法のひとつは、夢と現実のシークエンスの境目に登場人物の覚醒のショットを入れるというものだ。しかしこれは古くさいので、たとえばその映像が夢や幻視であることを示すために、誇張した撮影法で不条理なできごとを撮るとか、前後の状況設定とは明らかに矛盾するショット(その人物がそこに登場することはあり得ない、この風景はすでに何度か登場した同種の風景とは似て非なるものだ…等々)を挿入するといった手法で対処することも多い。ある種の作家はこうした映像の種別化のむずかしさを逆手に取って、描かれているできごとが夢か現実かをわざと識別できないようにする。

ある基準にもとづいて非実在の蓋然性が高いと判断される映像(たとえば夢、幻、幽霊など)を、ここでは屈折した映像と呼ぶ(注)。屈折した映像は、(いま例示した)昔ながらの優雅なタイプに尽きるわけではない。日常生活の場面に多くの記号と表象が入り込むにつれ、わたしたちの経験は至るところで映像の屈折に出会うことになった。写真や映画、TVドラマなどで見る映像とその記憶が、わたしたちの目に映る像のシークエンスの間に挿入されて、もうひとつの幻のグループを形成する。こうした経験を映画によって描くとき、そこでの映像の屈折は(それをまさに映像で表現するので)日常生活のそれに対してメタレベルにありながら、映画の技術的な性格ゆえに、あらゆる映像を(屈折の有無にかかわらず)無差別に扱わざるを得ないという逆説的な事態が生じる。

(注) 「ある基準にもとづいて」というのはいかにも曖昧に感じられるだろうが、日常の経験においても自分が見た映像の実在性はコンテクストに応じて判断される。覚醒後に夢だと気づく映像のほかにも、神経生理学的あるいは病理学的な理由で錯覚や幻覚と認定される映像もあり得るだろう。映画のコンテクストについて『悪魔の陽の下に』の例をあげよう。ドパルデューは強い信仰を持ち、過剰なまでの苦行に明け暮れる助祭で、深夜の徒歩の旅において出会った馬商人を悪魔だと認識する。悪魔が彼に与えた祝福によって、ドパルデューはボネールの心の中を読み、彼女の罪と苦しみを知る。ドパルデューと馬商人の対話および彼とボネールの出会いは映像で提示され、ドパルデューがボネールの心の中を読んでいるらしい事実はふたりの対話を通して語られる。この点は映画が観客にもたらすコードであるから、わたしたちはこのコードを「基準」にどの映像が屈折を受けるのかを判断しなければならない。ある者は馬商人を悪魔だとは考えないかもしれないし、ドパルデューはボネールの心を読んでなどいないとみなすかもしれない。またある者はボネールのapparition の映像が与えるある“感じ”を根拠に、映画前半のボネールの映像のほうに屈折を認めるかもしれない。このように、映画においては作品に内在するコードを基準にして映像の屈折のあり方を判断する必要がある。そしてどの映像を中心にコンテクストを作り、どの映像に屈折を認めるかについてはいくつかの選択が可能である。このことをわたしは特定の映像の媒介による映画の一連のシークエンスの再編成と言う。もちろん以上の指摘によってわたしは、映画の見方が恣意的であってよいと主張するつもりはない。むしろわたしの考えはその反対である。不注意であったり思い込みがありすぎたりする観客は、映画に内在するコードを正しく読まないだろうし、仮に読んだとしてもどの映像に注意を払うべきか、またそれによって何が屈折していると考えるべきかについてでたらめな判断をするだろう。映画の解釈が複数あり、お好みならそれが相対性を免れないだろうことをわたしは否定しないが、だからと言って恣意的解釈を容認するほどお人よしではない。

『めまい』でヒッチコックは、再会後のキム・ノヴァクに自分が取った行動について告白する手紙を書かせ、ラストの塔の場面ではジェイムズ・スチュアートに何が真実であったのかを解説させている。こうした明示的な手続きを通して、物語の前半にスチュアートが見たできごとは幻視ではなかったことが正当化される。しかし、むしろこちらが重要なのだが、後半で提示された映像間の秩序づけ、つまりスチュアートの悪夢に代表される屈折した映像・一見夢幻的だが実は仕組まれたできごとの映像・屈折とは無関係な映像という区分がどんなに整合的であろうとも、前半のスチュアートが経験するできごとを捉えた一連の映像群の屈折が拭い去られるわけではない。たしかに後半でノヴァクは自分が演技をしていたと告白するけれども、夢遊病の人のように意識を喪失して、死者にゆかりのある場所をめぐり歩くノヴァクの後をつけるスチュアートの見るものと、そのときのスチュアートの行動とを並列的に捉えた映像群は、事後的な説明とはかかわりなく屈折している。ノヴァクが幻を見ているのか、そうでなければスチュアートの衰弱した精神がありもしないできごとを作り上げているのか。また前半最後にスチュアートが塔から見るノヴァクのなりをした女性の亡骸は、スチュアート同様わたしたちにとってもノヴァクの映像なのであり、ここには屈折はない。だから後半サンフランシスコの街でスチュアートが出会うノヴァクこそ、彼女がマデリンであるなら亡霊であり、マデリンでないならスチュアートの想像の産物なのであって、この両義性においてすでに屈折した映像である。つまり後半の合理的な説明によっても、作中の映像に備わる屈折は少しも解消されはしない。『めまい』が観念的な作品である理由は、後半で整合的な解釈を示し、この作品が“じっさいに”何を描いているのか一義的に理解されるように促しているにもかかわらず、映像自体は自分の屈折をそのまま維持していることにある。

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