映画におけるイメージの屈折と観念(2)

映画における観念を作品に登場する語りが観客の知性に訴える効果(たとえば作中の思弁的な対話に導かれて観客が映像を解釈する内容)とみなす通念を退け、先の考察でわたしが主張したことがらを要約すると次の通り。映画の観念とは、作中のある映像が他の映像に、それが単独で示された場合とは異なる意味を与えるときの、その意味である。この主張の前提は以下の通り。映画には作品ごとに明示されたコードがあり、観客はそうしたコードにしたがって映像を見るよう要請される。とはいえ映像は作品のコードを逸脱したり、場合によってはそれに逆らったりする独自の表現を持っている。それゆえ映画作品においては、明示的なコードにしたがう映像の配列とは別に、映像と映像の間の相互関係が成り立ち得る。代表的な関係性は、ある映像を基準にすると別の映像の実在が信じられなくなる(ふたつの映像が提示している事態の実在は両立不可能)というものである。こうした映像間の関係が成り立つ場合、映画の中に実在しないものが映像の水準で示される。これが映画の観念である。

『めまい』のコードとは、映画の最後にスチュアートによって解説される犯罪のトリックである。作品を見終えた観客は、ミステリの謎解きを読む場合と同じく何が起こったのか、何が描かれていたのかについて納得するように促される。しかし本作前半で描かれるできごとの映像は、そもそも観客が後で示されるトリックを先読みしないように撮られている。ノヴァクの演技は完璧であり、スチュアートは自分が騙されていることに気づかない。これはとりもなおさず映像そのものが作品のコードに反発するように作られていることを意味する。だから観客は、たとえ結末を知った上でこの映画を見直したとしても、やはり前半の映像に騙されるのである。たとえば前半のラストで、塔から墜落したのはノヴァク(マデリン)であることを疑うのは困難であり、したがって後半に登場するノヴァクは幽霊、あるいはスチュアートが強引に作り上げようとする死者の複製である。むろん観客はコードを否定できない。それでも映像の表現そのものに沿って作品を見るなら、『めまい』は死者を甦らせようとする、ある男の絶望的な努力を描いているとみなすこともできるのである。前半ラストの墜落を、映像通りにノヴァクの死と受け止めるなら、作中のほとんどの映像の位置価が変わる(変わらないのはノヴァクに執着するスチュアートの行動と、前半のノヴァクのスチュアートに向ける愛のまなざしだけである)。

『悪魔の陽の下に』の場合、ドパルデューの行動を追う映像(馬商人との対話、ボネールとの出会い、左遷された田舎教区でのできごとなど)と彼の証言(馬商人は悪魔であること、悪魔の祝福の結果ドパルデューにはボネールの心が読めたことなど)、そして彼が目にしたボネールの顕現が解釈の前提となるコードである。『めまい』とは異なり、コードそのものに解釈の余地が複数ある。ドパルデューの証言をどこまで受け入れるか(彼は自分の体験をありのままに証言しているけれども、行き過ぎた苦行と疲労のせいで幻覚に襲われていた可能性はある)、ボネールの顕現をどう見るか(彼女の姿は本当に現れたのか、それともドパルデューの幻視だったのか)といったコードそのものの読解に応じて、作中の映像は互いに異なる位置価を獲得し、実在性も反転する。ここでのポイントは、どの解釈が妥当かということではない。提示されたコードにしたがいながら、基準となる映像の選択を変えることで映像間の関係が再編成されること、つまり基準の映像を通して他の映像の意味が別様に把握されることが重要なのである。

こうした映像による映像の捉え直しは、編集段階ですでに潜在化している。そこにはまだだれも解釈を下していない、解釈可能な映像間関係が含まれていることに注意してほしい。こうした可能的関係を映画の観念そのものと混同してはならないが、映画本来の観念がすでに映像編集の段階で準備されていることは事実である。映像間の相互関係が生み出す映像の可能的な意味こそ、わたしたちの解釈に先立つ、映画の観念の基底なのである。

カテゴリー: 映画   パーマリンク

コメントは受け付けていません。