忘れられたチョリソー

再び忘れてしまわないように結論から先に書くと、せっかくオムライスを作ったのに、後から冷蔵庫にチョリソーがあったことに気づいて悔しい思いをしたということである。

結果的に忙しく過ごしてしまった一日の夜をどうやってくつろごうかと考える時、その順位は酒>音楽>映画>ブログを書くことである。わたしは3年間ほどツイッターをやった。3度アカウントを作り、主に自己嫌悪ゆえ3度とも消している。酒を飲みながらつい書き込んでしまうのを止められなかったのが大きな理由だ。懲りもせず馬鹿なことをしたと思う。ブログの場合、たまには飲みながら書くこともあるけれども、多少まとまった文章は読み返してタイポの手直しをするから、発作的な投稿はしない。それでも翌朝読み返してみて「またつまらぬものを書いてしまった」と感じることはしょっちゅうである。とはいえ自分に甘いのだろう、自己嫌悪に至るほどではない。

ブログもツイッターのポストも事後に消してしまうことはできる。事実著名人が炎上した記事を削除することは多い。わたしの場合のように、アカウントを何度も消すことを含めて、こうした事後の削除の多くは無責任である。ただ、ウェブ上の記事というやつはいつか自分の手で消しておかないと、しばしば話題になる書き手亡き後の浮遊という、さまよえるオランダ人みたいな現象が起こる。それゆえ炎上ポストを即座に削除するという行為と、ある程度の時間経過後にサイトやアカウントを整理することとは区別してよいと考える。

ツイッターにおけるわたしの失敗は数知れないが、なかでも「ばか、死ね」事件は自分でも痛恨の極みだ。その日の昼、ある気鋭の倫理学研究者が「(罵倒語のなかでも)死ねはだめだろう」という趣旨のことを書かれたのを読んで、まったくその通りだとわたしは思った。わたしだって特定の人との議論や、匿名アカウントのポストで「死ね」とは書かない。とはいえツイッターなどで時々そう書きたくなる事象があることはたしかである。これは完全な言い訳であり、どこにも理屈は通っていないのであるが、いい年をした著名人がウェブ上で議論する際に、「ばか、死ね」の一言で議論を締め括っていたら、はるかにさわやかであったろうと感じられるほど、くだらぬ文言のキャッチボールを続けることがある。「死ね」の効用というものもあるのではないか、とその日の昼にちらっと思ったのが運の尽きだった。夜、酔っ払ってだれにでもなく(ということはフォロワー諸賢全員に向かって)「ばか、死ね」と書いてしまったのである。気が立っていたわけではなく、またそう書きたくなるような他人の書き込みを読んだわけでもない、言わば挨拶代わりである。こういう時に限ってポストはリツイートされる(わたしだって時にはまともなことを書いたはずなのに、まともな方は見向きもされないことが多かった)。見知らぬ人まで非公式RTでコメントをくださり、やはり恐縮した。

それなら飲みながらツイートするのを止めればいいだけなのだが、スマホ、酒、ツイッターは、酒場でつい書き込みをする誘惑に惹かれがちな組合せである。わたしはこの誘惑に勝てなかった。

今では比較的忙しかった一日の締め括りの時間に、何かをしてくつろごうとする時、先にあげたような順位が機能しており、よっぽどのことがないとブログを書くことはない。今は真昼間、オムライスを食べた後で書いている。

そのオムライスについてであるが、言うまでもなく中と外ふたつの要素から構成されており、外は卵焼きである(外が卵焼きでなければオムライスではない、はずである)。今日問題にしたいのは中の方だ。オムライスの「中」には無数と言っていいバリエーションがある。オムライスの楽しみのひとつはきれいな黄色い卵焼きにかけられたケチャップの彩りだろう。このケチャップの使用については、中にもケチャップを使用することで味の冗長さを楽しむ選択と、反対にその重複を避ける場合とに大別できることと思う。さらに前者と後者の中間(いわば直観主義的な態度)に、中はたしかにトマト味なのに、ケチャップをほんの隠し味のようにしか使わない方法、端的に言えばケチャップでなく、トマトソースを主体としてライスを味付けする路線がある。こういう当たり前のことをくどくど書いていると、ばか、死ねと言われかねないが(そう言われて可という自覚あり)、時として家庭のオムライスなどに、トマトソースの面倒を避け、中をケチャップで味付けしたために、外にかかるケチャップとの冗長な組合せが、その冗長さを求めずして生じるという苦渋のケースが認められるように思う。こうした事態を避ける簡便な方法のひとつに、カゴメの「基本のトマトソース」缶を買っておくという手がある。たまねぎとトマトを煮込んで下ごしらえしたもののカンヅメであり、本当に便利な商品だ。ほとんど塩気がついていないため、あとで必要に応じて応用が利く(わたしは赤トウガラシ、オリーブオイル、バジルしか加えず、ただ煮詰めるだけ、そのままの塩味でパスタのトマトソースを作っている)。

今日はオムライスの「中」にこれを用いた。オムライスに使ったのは初めてだが、直観主義的アプローチに最適だと思った。ただいつもの習慣で塩をわざと加えなかったことが、オムライスには災いした。その時である、冷蔵庫にチョリソーが存在していることに気づいたのは。もしトマトソースにチョリソーが添えられていたなら、おそらく味わいは完全であった。これが悔しいということを言わんがためのエントリーである。長々と失礼しました。

 

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