三題噺の試み(雪、パルジファル、酒)

首都圏は雪に弱いけれども立ち直りは早い。昼過ぎにはすでに何ごともなかったかのように人々は街に出ていた。もちろん路地裏に雪はまだ残っている。
雪に閉ざされた夜、よいつまみから見離されながらも雪見酒を傾けようとする時に、果たしていかなる選択があり得るか。今夜はこの問題について考えてみたい。
昨夜わたしは、メトロポリタン・オペラ、2013年のプロダクションで『パルジファル』を聴いた。この作品を全曲通して聴くのは年に一度か二度である。それくらい特別の機会なのに、大雪のせいで変電所の調子でもよくなかったのか、時々部屋の照明が変動したりする中、こういうのも祝祭的でいいかと無理やり言い聞かせながら、聴き始めればやはり引き込まれてしまうのだった。
ただフランソワ・ジラールの演出には率直に言って賛同できないところが多い。『パルジファル』でわたしがもっとも重要と考える場面の一つは、第三幕の聖金曜日の音楽が始まる直前、クンドリの洗礼の箇所である。このシーンでつい涙が流れることはしばしばだ。クンドリはアンフォルタスと同じか、ひょっとしたらそれ以上の苦悩に苛まれてきた人であり、なおかつパルジファルの行程のもっともよき理解者である。彼女のこれまでの行いが、他ならぬパルジファルによって受け入れられ、救済されるこの場面は、音楽に関しても直後の聖金曜日のそれに引けを取らない。ところがジラール演出では、このシーンでパルジファルがクンドリの額にキスしかけてしないという、思わせぶりな描き方になっている。昨夜もネタバレさせてもらったように、彼の演出はアンフォルタスではなく、クンドリの死によって締めくくられる。彼女の死を通してジラールが描き出しているのは、パルジファルとクンドリの間の至上の交感である。キリスト教の文脈における、愛の最高度のかたちが、クンドリの死によって示される。それはそうなのだが、この演出の難点は、第一に王の交代という聖杯物語の核心がぼかされてしまうこと(アンフォルタスはしばらく生き延びるのだから)、第二にクンドリの洗礼と死の間に、彼女が経験してしかるべきパルジファルとの時が消えてしまうことである。特に第二の点を引き換えにして、あえて終幕でクンドリを死を通して浄化しようとしたことは、本演出の随所に現れる女性の存在を重視するジラールの見解の一貫性を示すものではあるが、わたしはここに演出家の拙速を見ざるを得ない。ジラール自身幕間のインタビューでは、演出は音楽に立ち返るべきだと述べていた。本作品におけるパルジファルとクンドリの、音楽による交感を聴くならば、『トリスタンとイゾルデ』の場合とはまったく異なるパルジファルとクンドリの間の(こう言ってよければ)愛の姿をわたしたちは受け取るはずである。
旧演出におけるクンドリの洗礼の場面では、しばしば二人は抱擁し、続いてパルジファルはクンドリの額にキスする。新演出である以上、従来のあり方とは異なる解釈を示してみせること自体に、わたしは何も文句はない。文句があるのは思わせぶりと拙速に対してである。
カウフマン、ダライマン、パーペの歌唱、ガッティの指揮によるオーケストラおよびコーラスは素晴らしいし、演出家からの難題に応える舞台と照明の職人芸にも例によって脱帽せざるを得ない。だから、演出に文句を言っても、このプロダクションそのものに賞賛を惜しむつもりはない。
本題に戻ろう。大雪の日に、よいつまみに恵まれなかったとしたらどのように雪見酒を飲むべきか、これが論点であった。解答は無数にある。大別して、つまみを取らない、あるものでベストのつまみを作るという二つの行き方がある。後者について、実際にわたしが試して成功した一例を紹介させていただきたい。
アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ(にんにく・オリーブオイル・唐辛子)のスパゲッティというパスタの定番には、しばしばアンチョビが加えられる。この魚醤のアクセントがシンプルなパスタに与える奥行きをイメージするなら、茹で上げパスタにオリーブオイルと塩、そして粉末鰹だしという組み合わせを試してみて損はあるまい。そう考えてパスタをそれだけで味つけしてみたところ、少量なら酒のつまみにいけるということがわかった。以上その報告である。

【追記】 その後ワーグナーのリブレットを確認してみたところ、パルジファルがクンドリの額に口づけするのは洗礼直後ではなく、聖金曜日の音楽が流れる場面においてであった。ジラール演出で、キスしかけて止めるというのも同じ場面に関する話である。訂正します。

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