マスクの解釈学試論

花粉の季節が到来した。
わたしはしばしば小田急線の快速急行というものに乗って新宿ー藤沢間を移動する。首都圏の私鉄各線が設けている各駅停車/非停車区分に基づくカテゴリーには、もし日本に将来ゾラのような作家が出るとすれば、おそらく一章を捧げて笑い話にするに違いない複雑さがある。小田急線の快速急行というのは急行以上特急未満のカテゴリーであり、途中の駅を大量に飛ばして20分ほど停車しない。よって間違えて乗車すれば悲劇であり、わたしのようなヒマ人が間違わずに乗車すると、こういうどうでもよいエントリーを書くという喜劇になる。ちなみに先の超越論的仮象をめぐる与太話もそうした状況で書かれた。
さて、まさに今、20分間無停車状態にわたしたち乗客はある。車内にマスクの人たちのずらりと居並ぶさまは、マスカレードかミル・マスカラスである。超立体という幾何学的にどう定義されるのかが気になる(本当はならない)ベストセラー物から、オーダーメイドではないかとさえ思わせるジャスト・フィット物まで、実に絢爛たる世界が展開している。
わたしの弱った脳みそがこういう時に思いつくことといえば、マスクの解釈学という程度の内容だ。つまり、世に言うマスク美女はいかにして存在し得るかについての分析などである。顔の造作(パーツ)に限定して言えば、美的判断に関わる条件が多いほど対象はきびしいチェックにさらされるので、マスクをかけることによって条件を一つ減らせば、美女と認めてもらう可能性は高まる。これがマスク美女と言われる現象が比較的高頻度で認められる理由である。さてこの前提の下でわたしが提起したい問いはこうだーーではマスク美女は仮象か。美女と判断された以上それは美女だというのがわたしの立場である。ではその美の条件たるマスクは、マスク美女の成立にとっていかなる役割を果たしているのだろうか。
マスカレードやヴェネツィアのカーニバルなどに参加する際の貴族たちは、仮面を取った時の美を競ったと言われる。これは仮面を仮象の支えと見る立場であるから、マスク美女をめぐるここでの議論とは観点を異にする。マスク美女はマスクをかけている限りにおいて美女なのである。マスクはいずれ外されるだろうが、その結果が美的判断にいかなる変更をもたらすか(またはもたらさないか)は、マスク美女が美女と判断されたこととは無関係である。
隠されていることの美といった類の観点もわたしは排除する。マスクをかけている状態と外している状態の比較を前提にしているからである。現在わたしが具体的にリファレンスとしてチラ見している、車中のあるマスク美女を例に取ろう。この人の顔のパーツの中では、まず切れ長の目とマスクがそこにかかっているところの鼻の付け根の高さとが特徴的だ。ボーイッシュな短髪だが、前髪だけやや長めに額にかかっていることも、マスクとその前髪に囲まれた彼女のチャームポイントに視点を集める効果を上げている。この時マスクが果たしている役割は少なくとも二つあり、それは美的判断のポイントの集約と、判断の中立地帯の設定である。稀にマスクの形姿それ自体にフェティッシュな誘惑を認める判断もあるとは思うが、今はこの興味深い問題には触れない。
美のポイントを集約する機能については、すでに条件を減らすことで美のターゲットが広がるという前提の議論において瞥見した。ここでは判断の空白地帯という、マスクのマスクたる所以、あえて言えばその本質的な役割に注目しよう。何度も言うが、問題はマスクを外した時の容姿を想像することにはない。あるのは集約された美の傍らに空白が設けられているということだ。これこそマスク美女成立のもっとも重要な条件ではないか、というのが本稿の結論である。
そろそろ電車は終点藤沢に着く。

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