レナーテ・ザミ、レトロスペクティヴ

レナーテ・ザミ氏のレトロスペクティヴに行った(16日)。心洗われる経験だった。映画を撮るとは並大抵のことではないので、ましてや五月革命の時代にベルリンの映画アカデミーで学び、映画制作を通して真剣にまたナイーヴに芸術と政治について考えた若い人たちが、その後どのような軌跡を描いたかという事実に関するドキュメントを前にすれば襟を正さざるを得ない。

ホルガー・マインス Holger Meins――ベルリン映画アカデミーでハルーン・ファロッキらとともに学びながら(彼らは「グループ3」という名の映画制作集団を結成していた)、映画と政治を繋ぐ困難を契機に映画制作の道を離れ、バーダー・マインホフ・グループに身を投じて逮捕され、獄中のハンガーストライキの結果1974年(まさしくドイツの秋)に亡くなった(監獄の医師はその時ゴルフに出かけていたということになっている)――のベルリン時代について当時の仲間たちに聞くインタビュー映画を、40歳を過ぎて撮ったこと(『いずれ誰もが死ぬ、ただ問題はいかに死ぬか、そしていかに生きたかだ』(1975、この表題はホルガー・マインス自身の言葉である)が、映画制作者としての出発点となったレナーテ・ザミの、さらにその後の軌跡をいくつかの慎ましく美しい作品(『ブロードウェイ 95年5月』、『リアーネ・ビルンベルクの工房と彼女の父ダーヴィッド・バルフ・ビルンベルクの物語』(日本語吹替え版)、『チェーザレ・パヴェーゼ トリノ―サント・ステファノ・ベルボ』)を通して追うという本当に貴重な機会を、アテネフランセ文化センターと渋谷哲也氏、そしてもちろんレナーテ・ザミ氏自身(この度来日された)からいただいたことを感謝する。

映画を撮るということは、繰り返しになるが並大抵のことではない(『いずれ誰もが死ぬ、ただ問題はいかに死ぬか、そしていかに生きたかだ』のインタビュイーらも、アカデミーを卒業してから、当然のようにこの事実に直面した経験を、それぞれの言葉で語っている)。レナーテ・ザミの作品は、いずれも商業映画とはまったく異なる方法と態度とで、とりわけ自ら撮りたいと思った企画を可能な限り実現しようとする並々ならぬ意欲によって撮ってみせたという事実によって、今日映画はいかにして制作され得るかという、ベルリン・アカデミーの彼女の盟友、あるいは先輩からの問いに対する見事な答になっている。

スーパーエイトの時代を経て、いまやHDカメラを個人が容易に携えて外に出ることができる時代だ。これからの「映画」の可能性のひとつが、ザミの軌跡に現れている。

しかし、この時はっきり認識しておかなければならないことがある。それはレナーテ・ザミの作品が、映画を学び、その後も映画制作に関する研鑽を積んだプロフェッショナルの作品であり、かつ独自のリズムと様式を追求する本物の芸術家の作品であるということだ。HDカメラがだれにも容易に手にすることができる時代が到来したということは、ごみ屑が量産される時代になったということでもある。レナーテ・ザミ氏の作品は、そういう時代における一つの希望、一つの規範を提示するものだ。

 

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