映画の夢見るイメージ

『七年目の浮気』(1955)は、小道具の一つである精神分析を含めて『飾窓の女』(1944)の劣化バージョン的作品だ。冒頭のマンハッタン先住民のエピソードはともかく、物語本来のイントロダクション――猛暑のニューヨークを後に避暑地へ向かう妻子を駅舎で見送ったとたん、早速 itchyな気分(原題は“The Seven Year Itch”)に取り憑かれて道行く美女を振り返ってしまう、期間限定独身中年男――からして、ワイルダーが参照し仄めかしているのは明らかにラングの傑作である。

この文章の目的は二作品の類似点を列挙することではない――以前「映画におけるイメージの屈折と観念」http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=1110 というエッセイで取り上げた論点の一つを異なる角度から論じ直すことにあり、その題材として『七年目の浮気』と『飾窓の女』に共通する“夢見がちな主人公”という特徴が好適なのだ。

『飾窓』の主人公=精神分析学の教授(エドワード・G・ロビンソン)は、インテリの社交場である行きつけのクラブで友人たちと語らった後、店内の瀟洒なライブラリーに移り、たまたま書棚から手に取った『ソロモンの雅歌』を読みながら独り食後酒を傾ける――彼の数奇な体験はこの些細な気まぐれをきっかけに始まる。ほろ酔い加減でクラブを出た彼が道すがら、街角の飾窓に見えるお気に入りの美女の絵を街灯の乏しい光で眺めやると、オーヴァーラップして絵の中の人と瓜二つの顔が飾窓に浮かび上がるではないか。まさしく絵画のモデルを勤めた女(ジョーン・ベネット)が、シガレットの火を求めて飾窓の前、ロビンソンの前に現れたのだ。

この展開は冷静に考えればまずあり得ないものである。しかし、このショットは見る者を冷静でいられなくする特性を備えている。というのは街角の飾窓、そこに置かれた古風なタッチの油彩、絵画の中の美女に魅入られるロビンソン、窓ガラスに映るベネットというこの組合せ――潜在的なモンタージュ素材の集合――を、飾窓を捉える単一のショットが集約し、一瞬にして観客に複数の映像の相互関係を理解させるからである。映像がそれを通して観客に他の映像を想起させたり、それを他の映像と関連づけさせたりする特性を持つことを、わたしは映像の「屈折」と呼ぶ。『飾窓』のベネットの登場ショットは、まだ絵の中の彼女しか見ていない観客に絵のモデルの出現を告げ、わたしたちが少し前に見た絵の中の女性とベネットを結びつけるよう促すという意味で屈折している。モンタージュによってでなく、このように屈折したワンショットによって(具体的な技法はオーヴァーラップに過ぎないのだが)絵の女とベネットを関連づけることには重要な意味がある。説明的なモンタージュを通して絵の女とベネットを比較するといったもたついた描写によっては、このショットがわたしたちに与える擬似的なデジャヴの印象はけっして生じないからである。もしこの場面がモンタージュで描かれたとすれば、絵を前にしたロビンソンとベネットの出会いなどという万に一つの偶然は観客を失笑させるだけであろう。反対に、このワンショットが仕掛けたデジャヴの印象のせいで、わたしたちは瞬時にあり得ない事態に引き込まれてしまうのである。

さて『七年目の浮気』はと言えば、こちらはむろん観客を笑わせるための映画である。この作品のパロディとしての真骨頂は、あり得ないできごと、主人公の妄想を、まさに奇をてらったオーヴァーラップと、間のびしたモンタージュによって見せるところにある――映像に屈折を忍び込ませ、一瞬で観客をあり得ないできごとのただ中に引き込むラングとは正反対の手法が故意に採用されているのである。ラフマニノフのピアノコンチェルトが流れる中、イブニングドレスのマリリン・モンローが現れ、やがて二人の情熱的なキスに至る妄想のシークエンスは、期間限定独身者が見ている現実の部屋の映像にオーヴァーラップされるモンローの姿から始まり、ピアノの鍵盤を前に燃え上がる二人の姿のモンタージュへと引き継がれる。この間ラフマニノフは十数小節続くので、どんな鈍感な観客でもそこで起こるナンセンスを「理解」してバカ笑いする時間の余裕は十分ある。

『飾窓』のベネット登場のショットの場合、わたしたち観客は気づいたときにはもうすでにあり得ないできごとの中にいる。これほど映像の屈折の力をよく示す事例はないとわたしは思う。気づいたときはもう遅い――これがラングの定式である。

さて、夢見がちという点を除いてはどこにも共通点のない『飾窓』と『七年目』の主人公それぞれを描いた映像の話に戻ろう。ここから先の議論にはネタバレがどうしても必要である。『飾窓の女』は驚くべき映画であり、レンタルDVDがある。できればこの先は本作を観てから読んでいただきたい。『飾窓』を観る者は、ロビンソンとベネットの出会いに限らず、この後次々に起こる数奇なできごとを、こんなことがあり得るのだろうか、どこかで大きなどんでん返しがあるのでは、と心の中で疑いながら、しかし個々のエピソードを描くショットとシークエンスの生々しさに引っ張られ、「夢中で」映画を見続けるだろう。ところでだいたいこの手の設定は「これは夢でした」というデウス・エクス・マーキナの登場で締めくくられる。このありふれた結末を一般にどんでん返しと呼んでいいのかどうかわからないが、『飾窓』に限っては、その後半の息詰まる展開がむしろ見る者を「これは悪夢であってほしい、夢ならばそろそろ覚めてほしい」という思いへ導くので、ロビンソンが冒頭のクラブのライブラリーで、『ソロモンの雅歌』を手にして目覚めるショットはやっぱりどんでん返しの一種と言うべきである。

さて注意すべきはこの目覚めのショットが、冒頭のクラブのシーンのそれとそっくり同じ構図、人物、道具立てで撮られているため、観客にまさにその冒頭のショットを想起させ、「ああやっぱり悪夢だったのだ、夢から覚めてよかったな」と胸をなでおろさせる効果を持っており、ショットを目にしたその瞬間、考えるより先に、物語の円環が閉じるのを目の当たりにさせるという意味で、屈折しているということである。観客の一人はここで次のようにベネット登場のショットの印象を思い返すだろう――そういえばあのシーンのベネットの映像はすごく夢幻的だったな、やっぱりロビンソンは夢を見ていたんだ。

もちろん今の感想が公式的な『飾窓の女』についての理解である。しかしどうなのだろう、わたしたちはロビンソンの体験を描いたあれらの映像を、ロビンソンの見た夢であったと了解してしまってよいのだろうか。わたしの考えはこれとは少し違う。というのは、映画のどこを見ても、別にベネット登場のショットが夢だという指摘はないし、ロビンソンの目覚めのショットについても、このショットを通してそれ以前の映像が夢の中のできごとだったと「解釈」されなければならない明らかな理由は示されていないからである。何を言いたいのかと言えば、この二つのショットは屈折しており、その屈折が映画のある種の語りの文法において「夢」を指定するけれども、そうした文法を適用しないならこれらは別に夢でなくてもかまわない、ということである。予想される(正当な)反論は、映画の文法の適用をお前が勝手に決めるのは無法だというものである。恣意的に適用の有無を選べるのであれば、そんなものは文法ではない。しかし、ラングの作品は少なくとも数百年の寿命を持っているのだから、そのうち文法の規則が変わることを想定したとしても愚挙とは言えないのではないか。

先にわたしは、『飾窓』後半の切迫した展開を観る者は、「悪夢なら覚めよ」と思いたくなるはずだと書いた。ところでわたしはいくつか本物の悪夢を見たことがある。覚めてほっとしたのは事実であるが、悪夢というやつは見てしまったら終わりである。あの経験はまさしく本物の経験であり、一度見てしまったらそこから逃れることはできない。映画の中の悪夢についても同じことが言えるとわたしは思う。描かれてしまったらそれは本物の経験である。一時期の映画の語りの文法のおかげで、悪夢のような一連のできごとは、冒頭のショットとの間に円環を結び、かつそれを閉じる目覚めのショット(典型的な屈折を孕んだショット)によって夢であると認定される。そして語りの文法の効力が強いときほど、映画自身は「これは夢でした」という直接的な説明をしない。だから文法の効力が弱まり始めると、映画の中の目覚めのショットはたんに目覚めを描いた屈折したそれとなり、夢幻的と思えたベネット登場のショットもたんにデジャヴの印象を与える屈折したそれとなる。同時に悪夢と認定されていた映画の中のできごともロビンソンの文字通りの体験となるだろう。

『七年目の浮気』の主人公は、どこかで夢を見始め、どこかで夢から覚めるといったやり方はしない。彼はたえず現実の中にいて、同時に白日夢を見るのである。それが白日夢であることは、彼の妄想が一人称の語りで始まり、彼が見ている現実の映像にオーヴァーラップするかたちでできごとが描かれることによって理解される。つまり映画自身が、その都度「これは夢です」と説明するわけである。したがって『飾窓の女』のような、何をもって夢と言うかは適用される文法次第、という曖昧さはない。ここにも『七年目』のパロディとしての徹底ぶりを見てとることができる。

ここでもう一本別の作品を取り上げ、映画の中の夢、あるいは夢見るイメージについて付言しておきたい。『マリア・ブラウンの結婚』(1979)である。この作品も冒頭とラストで爆発のシーンが照応し合い、円環をなすという結構を備えている(ラストの爆発のショットは冒頭の結婚したばかりのブラウン夫妻の姿を想起させる点で屈折している)。ここから、“戦後の”マリアの軌跡は冒頭の爆撃の時点で彼女が見た幻だという解釈が生じる。しかしどうであろう、この解釈にしたがえば、わたしたちが知っている“現実の戦後ドイツ”の軌跡の全体が、今もマリアが見続けている夢の中のできごとということにならないだろうか(冗談です)。わたしの考えはもっと単純である――『マリア・ブラウン』の二つの爆発のショットは呼応し合っているだけなのだ。ある種の映画にはそれ自体夢を見ているかのような屈折したショットが含まれている。ある文法規則にしたがえば、そのような屈折したショットは「徴表」であり、そのショットまたはそれによって関連づけられたショットは「夢」という位置価を与えられる。しかしこの規則は絶対ではない。もし人がこの規則を離れて作品を見るならば、何の「徴表」としての役割も負わない、それ自体夢を見ているかのような屈折したショットと、「夢」の位置価から自由になったできごとを描くショットがそこに現れる。

 

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