フンマー×フンマー(クリスティアン・ペッツォルトの「内破」について)

クリスティアン・ペッツォルト監督の“Die innere Sicherheit”(邦題『治安』、2000)と“Gespenster”(邦題『幻影』、2005)とは、およそ5年の間隔を置いて撮られているにもかかわらず、双子のように緊密な関係を持っている。

(1) 主題の共通性。① 国家権力に逆らうために仮構される家族の形態――“Die innere Sicherheit”の場合、反体制活動家の夫婦が逃亡生活をともにしている娘ジャンヌは、どうやら父ハンスと血のつながりがなく――ハンスとジャンヌの親しい関係は“同志”のそれである――、15歳になって恋を知ったジャンヌは次第に両親のお荷物となり始める。“Gespenster”の場合、ニナがフランソワーズのもとに“還って”来る理由は、トニに連れられてグループホームから逃亡した結果、国家の庇護をあてにできなくなっていることにある。またかつて幼いわが子を誘拐された傷が癒えないフランソワーズは、いまや自らが未成年者略取すれすれの行為に走っており、夫の保護のおかげでかろうじて精神病棟に連れ戻されるのを免れている。② 結局自分を裏切ることになる恋人よりも仮構の家族を優先するものの、その家族の無残な崩壊によって取り残される主人公。

(2) モチーフの共通性。社会の底辺にあって、追いつめられている者どうしの出会いと愛、その破綻。空想的な目的地(サンパウロ、映画俳優の仕事、家族生活のやり直し)の他にあてどのない旅。身勝手で意地悪な大人たち(特にこの監督が中年女性を描くときにしばしば見せるミソジェニックなそぶりは、『イエラ』のデッサウの蓄電池会社社長夫人の“Get back!”や、『東ベルリンから来た女』の秘密警察女性取締官の傍若無人ぶりなどにも受け継がれている)、取り換えられたり万引きされたりするシャツやイヤリング、ユーリア・フンマーの夢想が閉じ込められたノート、嘘から始まる新しい現実(“Die innere Sicherheit”ではハインリッヒがポルトガルの避暑地の海辺で語る、ホームタウンのヴィラについての作り話がジャンヌの家族の隠れ場所を準備する。“Gespenster”ではトニのありきたりなホラ話に取って代わったニナの語りが二人を映画監督のパーティーに招待する一方でトニの裏切りをもたらし、またフランソワーズの妄想はニナを完全な孤独へ押しやる)、権力の陰険な身体(“Die innere Sicherheit”の特殊部隊の有無を言わさぬ追尾と暴力、“Gespenster”のグループホームと精神病棟の見せかけの善意)等々。

(3) ショットと編集が生み出すテンションの共通性。この2本に限らずペッツォルトの作品は、サスペンス映画風のかなり癖のあるシナリオにもかかわらず、これ見よがしなカットを含まない(たとえばクロースアップ、象徴的なインサート、技巧的な長回しまたはモンタージュ、人物の長いモノローグや内面を探るようなカメラの動きといった、よくあるサスペンス映画的処理はいっさいない)。トーマス・アルスランの作品と比較しても、カットはオーソドックスでカメラの動きは少なく、おそらく特定のショットだけを観る者に印象づけることはないだろう。にもかかわらず、彼の映画は2度、いや1度だけの視聴によって、ほとんどすべてのショットと映像の配列を鮮明に記憶させてしまうくらいの不思議な力を持っている。

“Gespenster”の冒頭シーンを想起してほしい。バッハのカンタータ21番の悲痛なテノール・アリア“Bäche von gesalznen Zähren”(涙の小川よ)が流れる中、カメラは運転席の男を右斜め後方から捉え、フロントガラス越しに道路添いの街並みを撮る。流れる景色の先に道路標識と立体交差が見えてくると、突然カーオーディオのバッハを遮って「この先左折します」というカーナビの音声が響く。これに続くのは公園の樹木の緑と葉を揺らす風を捉えたロングショットで、芝生の中央にはオレンジ色の作業用ベストを着てごみを集めている少女がいる。女性の悲鳴が響くと少女が振り返る。少女に寄ったショットは、彼女が振り返るしぐさと同期してスムーズに先のロングショットに繋がれているため、ことさら不審や動揺の感情を際立たせるものにはなっていない。むしろ観客は、公園の木々を渡る風と、女の悲鳴とを同種の自然現象のように受け止めるだろう。もちろんごみを集めていた少女の顔にはとまどいの表情が現れており、じっさい彼女は声の源を確かめ、二人の男に引きずられていく白いジーンズの若い女の姿を認める。少女は足早に暴行現場へ近づき、若い女が殴られるさまを見てとっさに落ちていた木の枝を取り上げさえする。しかし彼女は声をあげて助けを求めることはなく、男たちが人の気配に気づいて逃げ、暴行された女も木々の向こうに姿を隠してしまうと、散策路に落ちていたイヤリングの方に注意を向けるのである。この何の変哲もないシークエンスの間、わたしたちの印象に残るのは劇的に展開しそうに見えて不意に中座するできごとであり、車のフロントガラス越しに流れる景色、木々を渡る風、イヤリングを見つける少女のしぐさといった、できごとの中座そのものを描いていると言いたくなるようないくつかのショットである。そして切れ目なしに続くサウンドトラックには、カーオーディオのバッハ、エンジン音、運転する男のうめくような低い声、カーナビの音声、風と野鳥の声、女性の悲鳴などが登場する一方、だれもことばを話すことはない。サスペンス映画の手法のひとつに、冒頭で謎めいたできごとの断片を提示しておき、物語の進行とともに謎解きをするというものがある。しかし本作の場合、いま見たシークエンスには特に解かれるべき謎はなく、映画の進行とともに冒頭のふたつのできごと(ドライブと、公園の暴行)に続くできごとが平行して描かれていき、やがてふたつの線が交わるだけである。にもかかわらずこのシークエンスが(少なくともわたしには)記憶に残る理由は、劇的に見えたできごとが何の盛り上がりもなく中断される(同じことを裏返しに言えば、さりげないイントロダクションのように見せかけてじっさいには劇的なできごとが起こってもいる)こと、そして画面と音声の方は物語から独立に一貫したテンポを保っている(技巧的なショットもモンタージュも用いられることなく、自然の情景と音声が記録されているかのようである)ことにある。

“Die innere Sicherheit”には、たしかに少しだけ手の込んだシークエンスがある。しかしこちらも演出を通じてその特異性が強調されることはまったくない――ポルトガルの避暑地で、両親のアパルトマンをこっそり抜け出したジャンヌがはじめてハインリッヒとデートする場面に登場する、ハインリッヒのホームタウンのヴィラのシークエンスである。この場面でふたりはじっさいにはポルトガルの海岸にいる。ジャンヌから、彼の家族やこれまでの生活のことを聞かせてほしいとせがまれたハインリッヒは、本当は両親を知らず、バイト生活を送っているのに、自分は資産家の子で、故郷の町の豪華なヴィラ(空家になっている)は父親の所有物だと言う。彼が「想像してみて」とジャンヌに言うところから、音声は波音が持続するまま、映像の方はヴィラに入っていくジャンヌとハインリッヒの姿になる。床暖房のついたフロアも、大きなベッドのある部屋も、窓から見下ろすことのできる(青い水をたたえた)プールも、すべて後半登場するじっさいのヴィラの映像であり、ジャンヌとハインリッヒがヴィラの中を歩き、そこでキスするという、そこで起こっているできごとの内容は彼女の想像という設定だ。しかし、このシークエンスに登場するふたりは海辺でデートしているジャンヌとハインリッヒの姿のままであり、音声はいまデートしている海岸の波音なので、ジャンヌの想像を描き出しているというより、ふたりのデートの続きのように見える。そのためじっさいのヴィラの映像が登場するまでは、このシーンは現実と想像のあわいを漂流する印象を与えるのである。ペッツォルトの映像と音声は物語の起伏とは必ずしも一致しない独立した一貫性を備えているので、まさにそこから静かに流れるようなテンションの持続と、物語に関して言えば説明不十分な宙吊りの状態とが生まれる。いま例にあげたヴィラのデートのシークエンスには、ペッツォルトのこの“技法ならざる技法”がよく表れている。

以上のような2作の共通点を通して、わたしはペッツォルト作品には「内破」の手法が認められると主張したい。この語は“Die innere Sicherheit”に登場するキーワードで、直訳すれば「内なる平穏」となる作品のタイトルとも呼応する。反政府組織のメンバーであるジャンヌの両親は、万一自分や仲間が当局に捕まった場合、徹底黙秘して取締官を狂わせ、内破させることを最後の武器に闘うのだとジャンヌに教える。本稿でわたしは、ペッツォルトの映像と音声が必ずしも物語に“ふさわしい”テンポを持たず、ゆえにそれら独自のテンションを生み出す一方で、物語とできごとの“説明”が放置されがちであることを指摘してきた。こうした特徴こそ「内破」を準備するものである。しかしそれに留まらず、ペッツォルト作品には宙吊りや未決定というレベルでは済まない、決定的な非決定の局面がある。それは観る者にいっさいの解決を許さず、わたしたちを内破させようとする。2作の主題としてあげた、仮構の家族の崩壊によって独り放置される主人公の姿を例に取ろう。“Die innere Sicherheit”のラストシーンでは、ジャンヌは生きているのか、それとも幽霊になってしまったのかさえ定かではない。このシーンについてあれこれ「解釈」を加えてもムダであろう。

“Gespenster”の場合。ニナはトニが背中のハート型のあざを確認してくれたと言うけれど、該当するシーンでトニは無言である。また本当にニナの背中にハート型のあざがあったとしても、それでマリーが蘇るわけではないだろう。いやそもそもマリーが拉致されたというのはじっさいに起きたことなのだろうか(フランソワーズのドライブのシーンに、防犯カメラが捉えたマリーを連れ去る男の映像がインサートされていることはたしかだが、このシークエンスはフランソワーズのイメージとみなすこともできる)。いったいだれがどのような資格でGespenster(幽霊)なのだろうか。ひょっとしたらマリーは死んでおらず、ニナは本物のマリーなのかもしれない。ラストシーンのマリーの赤ちゃん(髪の色は黄色っぽいブロンド)から“成長”に沿ってだんだん細面になり、髪の色も茶褐色に暗転していく写真も、フランソワーズが画像処理したものかもしれないが、やはり解決不可能である(マリオット・ホテルの室内で、フランソワーズはニナの前に彼女がマリーと同一視した少女の件に関連して、夫に「前の(マリーの)写真は焼くわ」と言っている)。こうした一連のエピソードについてその思わせぶりを批判したり、あるいは多様な解釈が可能である等々、つまらない評価をするのはやめよう。わたしたちは黙って内破するしかないのである。(2014年4月9日、東京ドイツ文化センター=ゲーテ・インスティトゥート東京で2作品を観て。タイトル「フンマー×フンマー」は2作で主演したユーリア・フンマーを指す)

 

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