『青白い炎』

目次

1 ナボコフに対する現代人の関心と無関心
2 過去主義者(preterist)
3 神秘主義からの脱却――言語空間の可能性へ
4 Combinational delight

 

1 ナボコフに対する現代人の関心と無関心

今日ウラジーミル・ナボコフの諸作品の価値を全面的に否定する人は稀であろう。しかし、この作家については黙して語らない、あるいは無関心らしいそぶりを見せる文学者、批評家、読者も多い。ナボコフの作風についてしばしば指摘される次のような特徴が、関心の有無を分ける理由の一つかもしれない。すなわち19世紀的な語り口と構成、多少とも実験性を垣間見せる『青白い炎』のような代表作においても顕著な、文学から文学を作り出す手法(言語の領域での作品の完結を追求するかのような自足的書法)、精神分析を文学作品の読みに適用することへの断固たる拒否、文学者の好き嫌いを公然と語る歯に衣を着せぬ口調、意図された非政治的姿勢など。このような傾向が、読み手を警戒させるとまでは言わないまでも、立ち止まらせたり、その足を遠のかせたりすることはあり得るだろう。あるいはナボコフ信奉者につきまとう独特の文学臭――サークル内で熱心な議論が続けられる一方、文学を思想や政治などの領域へ開放したり接続したりする可能性を追求する者をシャットアウトするかのような秘教性(じっさい彼の作品を一通り読むだけでも相当の労力を要とする)――が、この作家を一部の読者から遠ざける要因かもしれない。

しかし、いま見たナボコフ観のなかには、彼を好まない批評家や彼の作品をあまり熱心に読まなかった読者の見解、およびジャーナリズムを通して固定化された思い込みないし通念が混入しているとわたしは思う。『セバスティアン・ナイトの真実の生涯』『ロリータ』『青白い炎』のように、語り手が一癖も二癖もある人物であるとか、まえがきの署名がすでに架空の人物のものであるなどといった時代がかった形式をわざわざ採用したり、自作の英語版(自身または息子ドミートリによる英訳)の序文にいささかでしゃばりすぎた自己評価を記したり、精神分析の創始者を「ウィーンの妖術師」と呼んだりする茶目っ気の行き過ぎについては、もちろん彼自身が種を蒔いたのだし、あまりにも有名な彼の出自と亡命をめぐる伝記的事実が神話めいたオーラを呼び出したという側面も無視はできない。とはいえナボコフの作品にいまもつきまとう固定観念――言葉の魔術師、文学から文学を作り出す技巧派作家等々――が、この文学者の仕事を正当な評価から遠ざけていることも事実である。

ナボコフの食わず嫌いがこの世にたくさんいることは、いま例にあげた紋切り型の流布に主たる責任があるだろう。しかしさらに残念な事実は、食っても嫌いという読者も相当多いことであり、こうした事態を前にしては、ナボコフの作品そのものが悪いのだろうと結論を急ぐ人がいてもやむを得ないように思われる。だがことはそんなに単純ではない。なぜなら彼の作品にはしばしば読者を迷わせ、失望に導き、そそくさと立ち去らせる罠が仕掛けられているからである。いや、そういう一筋縄ではいかぬところ、いたずらに思わせぶりな手管こそ、この作家を一部の読者が毛嫌いする理由ではないか――こういう主張が一面の真実を突いているいることはわたしも認める。しかし、読者を迷わせるその罠をかいくぐった先に、たんなる謎解きの正解などではない、あらためてすべての読者に開かれたある地点が存在するとしたらどうだろう。唯一の正解など存在せず、読むことがアレゴリーに他ならないような読解の経路を通って、それでもすべての読者が間違いなく到達できる開かれた空間――わたしはこれから『青白い炎』におけるそのような中心点を示してみたい。この作品こそ、ナボコフにまつわる紋切り型を多くの軽率な読者に印象づけてきたものである。いわく技巧の極み、完成された冷徹な言葉の宇宙云々。わたしの考えはこうしたレッテルとは正反対だ――『青白い炎』はナボコフのきわめて率直で飾りのない、文学者としてのCredo(わたしは信じる)である。

『青白い炎』という題名には三つの役割がある。1) ナボコフが1962年に刊行した作品のタイトル、2) ジョン・シェイドが著した未刊行の詩篇のタイトル、3) チャールズ・キンボートが1959年に、2)にまえがき・注釈・索引をつけて刊行した書物のタイトル。本稿には1) と2) を区別しないと議論が混乱する箇所がある。そこで以下の記述において、1) を指す場合、ナボコフ(の)『青白い炎』、2) を指す場合、シェイド(の)『青白い炎』と表記する。また括弧内の数字はシェイド『青白い炎』の詩行を指す。

 

2 過去主義者(preterist)

出発点はpreterist (79,517)である。この語はフランス語のpasséiste (注1)にほぼ相当する(preter はラテン語の副詞または前置詞praeter(通り過ぎて)に由来。「通り過ぎる」を意味する動詞praetereo の過去分詞praeteritumは「過去」を指す)。死後の生をどのように見出すかという到達点に向かって進むシェイドの『青白い炎』において、この語は、詩人(シェイド)が自分の人生を振り返り、親しい死者たちについて歌うときのそのあり方を指している。

詩人、もっと一般的に文学者は何らかの意味でpreterist である。自身の過去の経験を創造の主要な契機としない文学者は存在せず、またその作品は過去の文学作品を多少ともふまえて制作されるからである(ナボコフをめぐる紋切り型、“文学から文学を創造する作家”は、ナボコフ一人に付与されるべきものではない。少なくとも創作の一契機としては、どんな文学者も先行する文学作品から出発する)。ナボコフもシェイドと同じく、過去の経験を再創造することを通して文学者としての道を歩んだ(注2)。ロシア語で書かれた『賜物』と、自伝“的”作品『記憶よ、語れ』とに、preterist ナボコフの面目が現れている。そしてもう一つ忘れてはならないことは、ナボコフとキンボートの亡命者という共通点である。彼らはともに祖国と祖語を離れることをやむなくされた。ナボコフが過去の自作を英語に翻訳するとき、彼はそれを再生させるためにいったん作品を過去の時点に置きなおさなければならない――祖語をあたかも翻訳される必要がある外国語に見立てて。

シェイド『青白い炎』に戻ろう。詩篇は、詩人自身を「窓ガラスの中の偽りの青空によって殺されたwaxwingの影」と呼ぶ冒頭の1行から始まる(waxwingはスズメ目レンジャク科レンジャク属(Genus Bombycilla)の小鳥(注3))。幼い日に亡くなったシェイドの両親が鳥類学者だったことは73行に記され、キンボートはこの箇所の注釈において、詩人の父がBombycilla shadei と名づけられた鳥の発見者だと指摘している(レンジャクと訳される属名Bombycillaは絹の尾を意味する)。シェイド『青白い炎』第1行の“the shadow of the waxwing”がそのBombycilla shadeiに由来することは明らかである。すでに詩人自身が詩篇冒頭において死者として扱われ、彼の人生と詩作とは「(窓ガラスに)映し出された空を生き続け、飛び続ける」(3-4)ことだと言われる。このようにpreterist とは、自分を含む死者たちの過去について書く人である。

だから詩篇第3章のはじまり近く、I・P・H(Institute of Preparation for the Hereafter)での死についての講義に触れた箇所で、シェイドはpreterist が本来見逃すべきではないもっとも興味深い事柄として、「われわれは毎日死ぬ」(519)ことをあげるのである。このように核心を突いておいて、詩篇の方は戯画的に、IPH(キンボートの注釈によれば、南西部の「名望ある高等哲学協会」の略称をもじったもの)のやみくもで誤った来世への準備の数々を並べていく(神秘的ヴィジョンから借用されたがらくた、仏教、霊媒、修道士カラマーゾフの「すべては許される」、フロイト一派等々)。これらの冒険はある意味で詩人の助けとなる。なぜなら「死の淵を見わたすときに何を無視すべきかを学んだから」(647-8)。

preterist シェイドの面目が痛ましく冴えるのは詩篇第2章の、ヘイゼルの生と死を描いた箇所である。わたしがナボコフ『青白い炎』にこの作家の例外的に生々しい声を聴き始めるのも同じ箇所だ。『記憶よ、語れ』には祖国の喪失によって奪われた少年時代への哀惜の記述はあっても、肉親の死に関する直接の描写はない(父の不慮の死について述べたくだりは、それに先立つロシアでのできごとに関連して、あくまで事件の経緯を指摘するに留まっている。また少年時代のあれやこれやにはいつも一歳違いの弟が付き添っていて、彼に対するウラジーミルの情愛は明らかであり、だからこそその死については一言も語られない(注4))。シェイド『青白い炎』の第2章の約3分の2がヘイゼルの生と死に費やされている理由の一つは、preterist としての詩人がもっとも痛切な過去をどのように語るかをつぶさに示すことにあり、イアンボスという古風な詩型に収められているにもかかわらず、詩人の言葉は胸を打つ。そしてここにもう一人のpreterist ナボコフの、他のどの作品にも見い出せない、親しい死者たちに対する声を認めることができるとわたしは思う。

 

3 神秘主義からの脱却――言語空間の可能性へ

シェイド『青白い炎』の構成上の要の位置にヘイゼル・シェイドの死をめぐる記述が置かれている第二の理由は、この詩篇がついに“I’m reasonably sure that we survive/And that my darling somewhere is alive”(977-8)と歌うために不可欠な契機として止揚される死を示すことにある。

シェイド夫妻の念頭に、ヘイゼルがいない一瞬、一時、ついには一日が訪れるようになった(665-6)ある日、詩人は臨死を体験する(682-722)。「なぜ詩はわたしたちに対してmeaningful なのか」と題された「退屈な」講演を終え、ステージを立ち去ろうとしたとき、シェイドは心臓発作を起こす。詩人はこの発作のさなか(失神中に)、「高く白い噴水が立ち上がる」のを見る(706)。居合わせた医師は、こうした発作を起こした人がどんな幻覚を見ることもあり得ないと断言するが、シェイドはこの幻視の価値を否定できない。噴水のイメージはしばらくシェイドの慰めとなる――そして彼は同様の幻視を体験したという、ある婦人に関する記事に出会う。詩人はわざわざその女性を探し出して訪う。

彼を待ち受けていたのは、近づきになった有名人との茶飲み話を期待していた女との無意味な対話にすぎなかった。その上、件の記事を書いた記者の一言は、“There’s one misprint―not that it matters much: /Mountain, not fountain. The majestic touch.”(801-2)

さて、続く一連がわたしの考えるシェイド『青白い炎』の中心である(804-815)。原詩と、富士川義之氏による邦訳(2003年の改訳版)を掲載する。

Life Everlasting―based on a misprint!
I mused as I drove homeward: take the hint,
And stop investigating my abyss?
But all at once it dawned on me that this
Was the real point, the contrapuntal theme;
Just this: not text, but texture; not the dream
But topsy-turvical coincidence,
Not flimsy nonsense, but a web of sense.
Yes! It sufficed that I in life could find
Some kind of link-and-bobolink, some kind
Of correlated pattern in the game,
Plexed artistry, and something of the same
Pleasure in it as they who played it found.

誤植に基づいた――永遠の生とは!
家路に向かいながらわたしは思いに耽った。この暗示(ヒント)に従って、
わが深淵を探索することをやめるべきだろうか?
しかしすぐさま思いあたった、これこそが
真の核心であり、対位法的なテーマだということが。
まさにこれなのだ。テクストではなく構成(テクスチャー)なのだ。夢ではなく
あべこべの偶然の一致なのだ、
浅薄なノンセンスではなく、意味の織物なのだということが。
そうなのだ! この世でのわたしは
ある種の連鎖(リンク)や米食い鳥的紐帯(ボーボーリンク)を、ある種の
相関的パターンを、巧緻な芸術的効果を、
このゲームのなかに見出し、ゲームをする人たちが
見出すのと同じ喜びを幾らかでも味わえるだけで十分なのだ。
(引用者注 下線部は原訳文では傍点)

シェイドは夢に見た噴水の超越的なイメージに支えられたテクスト(text 言説)などでなく、mountainとfountainという二つの音の偶然の一致(coincidence)によってさえ喚起され得る構成物(texture 意味の織物)こそが、死を超えた永遠の生という深淵を探索する上での核心(real point)であり、対位法的なテーマ(contrapuntal theme)だという。

いったい何を言っているのだろうか? この詩句は、テクストではなくテクスチャー(意味の織物)を、言説に忍び込む超越的イメージではなく言葉と言葉のゲーム的関係を選択しようと言っているだけにも見える。そしてこのような読みに留まるとき、以上の詩句はまさしくナボコフを(そしてナボコフの『青白い炎』を)言葉遊びの上で自足する魔術師とその作品世界という紋切り型に結びつける根拠となる。

しかし、そうした読解は重要な一点をやり過ごしている――誤植に基づく永遠の生というこの笑い話が、なぜこれほどまでに詩人を感激させるのかということである。シェイドは彼の『青白い炎』第4章で、いま引用した発見をよすがに自分と愛娘の永遠の生を確信する(“I’m reasonably sure that we survive/And that my darling somewhere is alive”(977-8))。これはreasonableな確信であり、夢に現れた噴水のような超越的なイメージをたよりとするたんなる来世への信仰ではない。

mountain/fountainのような偶然の一致が編み上げることのできるテクスチャー、あるいはイアンボスによって紡がれるシェイドの『青白い炎』のような詩篇が、どうして詩人に自分と愛娘の永遠の生という確信をもたらすことができるのか、考えてみるだけの価値はあるだろう。しばらくの間、詩句から少し離れて考察することをお許し願いたい。

まず退けておかなければならないのは、文学作品の永続性に作者である自分の名の永続性を重ねるという類の考え方である。作品を支えている言語と言語共同体の寿命は人間個体のそれと五十歩百歩のきわめて儚いものだから、作品に作者の永続性を託すといった見解は、いま問題になっている永遠の生という事柄とは明らかに無関係である。シェイドによって提起されたと考えられるここでの問題は、偶然を許容する言葉のテクスチャーが、そのテクスチャーになんらかのかたちで関わる人々に永遠の生をもたらすとはどういうことか、ということであった。

シェイドが失神中に夢見たのと同様のfountainに関する証言は、永遠の生の啓示どころかミスプリントに由来する誤解にすぎない。しかしこの事実を通してシェイドは、脚韻の規則に従ってfountainとmountainの交替が積極的に求められる詩に立ち返り、じっさいにそれを自作に書き込むだけでなく、こうしたテクスチャーこそが彼の探求のreal point なのだと述べる。音韻の類似という偶然のつながりしかない言葉の連関にどうして詩人は永遠性を認めることができるのだろうか。仮説を提示しよう――ここで詩人が考えている永遠性とは、一つの言語が生み出し得る可能性の永遠という事実なのではないか。

ある言語と言語共同体の出現は偶然の産物である。しかしそれが現実のものとなり、いまだれかがその言語を用いているという事実は、それだけで十分この言語の可能性を証明する。そしてかく証明された言語の可能性は、その言語と共同体が滅び、二度と再び現実のものとならなかったとしても永遠である。

いまわたしが問題にしているのは、どのようなシンボル体系も(それが論理的に不可能でない限り)可能であるという抽象的で一般的な事柄ではなく、具体的なシンボル体系が個人のもとに立ち現れ、かつその人の参与(たとえば愛娘と語り合ったり、詩を作ったりすること)を通じてその体系が自身の可能性を立証されるという事態である。このようにして現勢化した具体的なシンボル体系は、その可能性が汲み尽くされることなく滅びても(じっさいにその可能性が汲み尽くされるということはあり得ない)、その可能性自体は永遠であり、体系に参与した個人はその永遠性を認識できる。

英語にせよ日本語にせよ、言語というシンボル体系は幾重もの偶然が重なってできた産物であり、いずれは滅びる運命にある。しかしこうした言語とそれが生み出す世界とは、いまわたしたちがその言語を用いているという事態によって可能であることを立証されており、こうして証明された言語空間の可能性は、言語自体が滅びてしまった後もけっして滅失しない。もちろんこの可能性は、現勢化の有無にかかわらず予見できただろう(神の知性のようなものを仮定すれば、その知性の中に理論上はあり得たという意味で)。しかし繰り返して言うが、問題はそのような一般的な可能性にはなく、この可能性がいまわたしの前で実現され、わたしがその可能性の証人であるというそのことにある。そして、ここでわたしが認める可能性は、当該言語の規則に従うcoincidence を排除しない。mountain がfountainに交替することは、むしろこの可能性によって積極的に容認される事態だ。

以上がわたしの仮説である。シェイドがmountain/fountainのミスプリントを通して発見したテクスチャーがなぜ彼に永遠の生を保証するのか。言語の可能性は永遠だから――これが答えだ。

わたしのこの仮説はもちろんナボコフの考えとは完全には一致しないだろう。しかし、こうした仮説をあえて掲げることには次のような意義がある――ナボコフが彼の『青白い炎』において、たんにテクスチャーとゲームの擁護を企てたなどという浅薄な意見を退けるという意義である。

 

4 Combinational delight

詩篇の971行以降を引用しよう。

I feel I understand
Existence, or at least a minute part
Of my existence, only through my art,
In terms of combinational delight;

combinational delight. これはナボコフの全制作に通じるキーワードである。アメリカ時代の彼は、何度かインスピレーションとコンビネーションの結びつきこそが芸術の要諦だと述べた(注5)。ナボコフ『青白い炎』に登場する作詩の二つの方法(840-860)も同じことを語っている。しかし、シェイドが言語空間のコンビネーション(それはインスピレーションと偶然性がもたらす語の交替を許容する)の可能性をひとたび自身の永遠の生と結びつけるのを見た上は、combinational delightというこの語にも、わたしたちは新たな含意を認めないわけにはいかない。

以上で本論は終わったが、ここで一つ、ナボコフを論じるのにふさわしいゲームをやってみようと思う。ナボコフ『青白い炎』に関わる、まったく蛇足と言うべき問題を提起したいのである――詩篇27-8行に出てくる、シャーロック・ホームズの登場人物とはいったいだれかという問題だ。ホームズ譚の登場人物で「靴を逆さにして、後方を指す足跡をつけたやつthe fellow whose tracks pointed back when he reversed his shoes」とは何を指すのだろうか。

キンボートはこの箇所の注釈で珍しく慎重に「これがどの物語への言及なのかを確かめる手だてはないが、詩人がこの〈後退する足跡の事件〉をでっち上げたのではないかと、わたしは疑っている」と述べている。ところで富士川義之氏による2003年の改訳には、この物語を『バスカヴィル家の犬』と特定する訳注が付いている(84年の同氏による初訳にこの注はない)。一方、シェイドの詩篇368および369行のGrimpenが『バスカヴィル家の犬』の舞台であり、犯人ステイプルトンが呑み込まれたとされる沼地の名称に他ならないにもかかわらず、03年版のGrimpenへの訳注はこれに言及していないばかりか、「『気味の悪い家畜小屋』ほどの意味か」となっている。つまり03年の改訳の時点でも、訳者は『バスカヴィル家の犬』を読んでいないのに、詩篇27行については同作の名を上げているわけである。わたしは1984年から2003年の間のナボコフブーム(その立役者はやはりBoydである)の詳細を知らないが、富士川氏がこの訳注を付す上で参照したネタ本があったと考えざるを得ない。

結論から言えば、『バスカヴィル家の犬』に〈後退する足跡の事件〉などは出てこないので、だれかは知らないが、最初に詩篇27行を同作と結びつける解釈を提示した人は、たんに誤りを犯しているか、あるいは次に述べるような深謀遠慮を加えたかのどちらかであろう。

多少ともミステリを読む人ならだれでも知っている通り、ナボコフ『青白い炎』27-8行が言及している〈後退する足跡の事件〉(問い=雪の中の犯行現場に残された足跡は現場に向かうそれだけで、そこから立ち去った跡はない。いったい当事者はどうやってその場を後にしたのか。答え=後ずさりであたかも前進するかのような足跡をつけながら立ち去った)には無数のヴァリエーションがあるものの、その原型を生んだのはモーリス・ルブランである(ロマンティックな連作短編集『八点鐘』の第7編「雪の上の足跡」)。つまりシェイドはこの箇所で「シャーロック・ホームズ」を「アルセーヌ・ルパン」と取り違えているわけだ(もちろんナボコフは意図的に二人のヒーローの名を交換しているのである。これはGoldsmithとWordsworthとが音節の構成要素を交換するのと同じ水準にある)。

では『バスカヴィル家の犬』を持ち出した解釈者の根拠はどのようなものと推測できるだろうか。詩篇にはGrimpenの他に、同作への言及とみなすことのできる一節がある。作品の終幕近く、シェイドが二つの形象に分かれ、片方の靴とともに片割れの自分を見出す箇所だ(880-4)。

『バスカヴィル家の犬』にはサー・ヘンリーがロンドンのホテルで一度新品の靴を片方盗まれ、その後盗まれた靴は戻ってくるものの、今度は古靴が片方だけ盗まれるというできごとがある――犯人ステイプルトンが伝説の魔犬に見立てた犬にサー・ヘンリーの臭いを覚えさせる目的で行ったのである。もう一つの〈後退する足跡の事件〉とかろうじて関連するエピソードは、同作の終幕に見出されるステイプルトンの足跡だ。彼はサー・ヘンリーを陥れようとする奸計に失敗した後、Grimpenの底なし沼を前に自身の足跡を絶っている。ナボコフ『青白い炎』の才知溢れる解釈者は、ステイプルトンがGrimpenの底なし沼に足を取られたのではなく、ホームズを欺くため逆さに足跡をつけ、その場を無事に立ち去ったとみなしたのだろう。ステイプルトンは博物学に関心を持ち、作中緑色の虫取り網を持って行き来しているのだから、その姿を『青白い炎』の演出家として舞台の袖を往来するナボコフに重ねる深謀遠慮が芽生えたとしても無理からぬことかもしれない。しかし、わたしは27-8行を、単純に「シャーロック・ホームズ」と「アルセーヌ・ルパン」の交換と読む。その理由は、mountain/fountainにある。

 

1 たとえばこの語はJ=P・サルトル『聖ジュネ』冒頭の一文にある。

2 「過去の欠片を鮮明に思い出すという行為は、私が生まれてからこのかた最大限の熱意をこめて実行しているように思えることであり、このほとんど病的なまでの回想能力の鋭さは遺伝的形質だと信じるに足る理由がある」(『記憶よ、語れ 自伝再訪』第3章第7節、若島正訳p. 88)

3 “Waxwings are characterised by soft silky plumage. (Bombycilla, the genus name, is Vieillot‘s attempt at Latin for “silktail”, translating the German name Seidenschwänze.) They have unique red tips to some of the wing feathers where the shafts extend beyond the barbs; in the Bohemian and Cedar Waxwings, these tips look like sealing wax, and give the group its common name (Holloway 2003).”(“Waxwing,” http://en.wikipedia.org/wiki/Waxwing

4 ウラジーミル・ナボコフの弟セルゲイは、1943年にナチスの強制収容所で亡くなっている(筑摩世界文学大系81『ボルヘス/ナボコフ』所収、「ナボコフ年譜」による)。

5 たとえば次の文章。 「文学の教師というものは、とかく “作者の意図は何か”とか、さらにひどいのになると、“この作者は何を言わんとするのか”などといった問題を持ち出したがるものだ。ところが、あいにく私は、作品を書きだすにあたって、すこしでも早くそれを片づけてしまいたいという以外には何の意図も持ち合わせず、作品の生まれや育ちについて説明を求められた場合には、《インスピレーションとコンビネーションのインターリアクション》といった古めかしいきまり文句――これはマジシャンがあるトリックを説明するのに別のトリックを用いるのと似たりよったりだということは私も認める――に頼るしか能のない部類の作家に属する」(ナボコフ「ロリータについて」、1956年。大久保康雄氏の訳に若干の修正を加えさせていただいた――元の翻訳では「霊感と組合せの相互反応」に「インスピレーションとコンビネーションのインターリアクション」というルビが付されているが、この引用では上記の通りルビ部分のみを残している。原文 On a Book Entitled “Lolita” はここで読める)

【履歴】

・ 2015/8/8  注2を改めた(『記憶よ、語れ』 の新訳が刊行されたため)。晶文社版旧訳(大津栄一郎訳)は1960年の Grosset and Dunlap, New York 版(1951年初版と同内容)に基いている。若島正氏による新訳(作品社)の底本は、2000年刊行の Penguin Classics 版であり、両者には異同がある。このブログ記事で引用した文章も、新訳では第3章7節冒頭にある。なお本記事における差し替え前の注(大津栄一郎訳を用いた)は以下の通り。

2 「過去を鮮明に憶えておくというのが、私がこれまでけんめいにしようとしてきたことのような気がする。また私の病的なくらい敏感な過去の追想能力はわが家の遺伝的特徴のような気もする。」(『記憶よ、語れ』第3章第6節)

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