『大いなる沈黙へーーグランド・シャルトルーズ修道院』(Die grosse Stille, a film by Philip Gröning, 2005)

ミイラ撮りがミイラになる、いやミイラになるためにミイラ撮りに行くと言うべきか。祈りを撮影するうちに映画が祈りになってしまう。

フィリップ・グレーニング(Philip Gröning) の2005年作品『大いなる沈黙へ』(“Die grosse Stille”)がようやく日本で、来る7月に公開される(この5月はじめには監督が来日する)。

カトリック各宗派の中でもっとも厳しい戒律をもって知られるカルトジオ会の本山、フランス・アルプスの中腹にひっそりと佇み、修道士と寺男以外の部外者の立ち入りをいっさい許さないグランド・シャルトルーズ修道院で日々行われている修道士たちの祈りの生活を捉えたドキュメンタリーだ。監督が修道院に院内の撮影許可を求めたのは1984年、準備が整ったという返事が届いたのはその16年後であったと言う。しかも撮影の条件はただ一人のクルーが修道士と生活をともにすること、映画にはナレーションと音楽(礼拝で歌われる聖歌の同時録音は除く)をいっさい付けず、照明も用いないこと。

映画人であればわくわくする申し出ではないか。グレーニングはたった一人、カメラを担いで修道院の門をくぐり、修道士たちの祈りの姿を記録した。

カルトジオ会(カルトジオはシャルトルーズのイタリア語読み)の戒律は、修道士たちに孤独の中での祈りを求めている。彼らには比較的広い、窓のついた個室が与えられ、食事を含む毎日の基本的な生活はここで送られる。もちろん定時の祈りのために、彼らは厚い綿のフード付き修道服を纏って一日に何度も居室と礼拝堂を往復する。この間互いに無用な会話を交わすことは禁じられている。カメラが捉えた礼拝堂の空間にほとんど装飾品はなく、祭壇も、修道士席を配した長方形の内陣も狭く質素に見える。

聖週間を除く毎週日曜日、兄弟たちは食堂でいっしょに食事を取り、家族の絆を確認する。その後は週に一度の語らいの時だ。くつろいで、楽しげに語り合う彼らの姿をカメラは捉えている。しかし話題はしばしば信仰と礼拝をめぐるものになる。ある修道士は言った、「わたしたちの生活は象徴なんだ。象徴がなくなればすべてが崩れてしまう」。

アルプスの中腹に立つ修道院の周辺には、手つかずの自然がいっぱいである。映画全篇にみずみずしい沈黙が横溢しているが、時々聞こえてくる鳥たちや虫たちの声も清冽である。修道士たちの日曜日の語らいの延長で企画されたのだろう、修道院をはるかに見下ろすアルプスの雪山へピクニックに出かける修道士たちの姿が、大ロングショットで(なにしろレンズを何個も携えて出かけるわけにはいかない上に、一度あるアングルで撮ると決めたら、監督=カメラマンには変更が許されない)撮影されたシーンがある。彼らは雪山の斜面をそりまたはスキーで滑り降りるように(じっさいには靴しか履いていない)滑降して楽しむのだ。この時ばかりは笑い声が溢れる。

あるいは散髪のシーン。二,三か月に一度くらいなのだろう、その必要があるほどには伸びた髪をバリカンで刈ってもらう。一人の修道士と一人の寺男(修道服を着ておらず、剃髪もしていない)とがぶっきらぼうに散髪を担当する。町の理容室ではあたりまえの、理髪師と客の間にあるような会話はない。散髪室のおそらく隣室には洗面台とシャワーがあり、暖かな季節にはここで散髪後、各自丸めた頭をさっぱりと洗い清める。

映画は冬から春へと進み、冒頭の冬の映像に戻る。四季の風景と生活が一通り収められているとは言えないものの、修道院を取り巻く厳しい、けれども恵み豊かな自然の姿はよく捉えられている。とりわけ分厚く積もる雪と木々を渡る強い風は荘厳であり、一方修道院で飼われている牛たちが草を食む姿と彼らのカウベルの響きは心を和ませる。

わたしが特に興味深く聞いたのは、礼拝での聖歌(単一声部のチャントである)の唱和とフランス語またはラテン語による祈祷である。修道士たちはあらかじめそのための練習を怠らない。自室での聖書味読の合間に、彼らは楽譜を参照しながらチャントの音程を確かめる。

俗世の雑多な楽しみはないかもしれないが、わたしたちの娯楽の原型をなすものはだいたいすべて揃っているのである。厳しい戒律のもとで、死に至るまで数十年の歳月を過ごす選択がけっして理不尽ではないことを彼らの生活は教えてくれる。

映画は撮影・録音・編集以外のことは本当に何もせず、ナレーションの代わりに時々聖書の言葉を字幕で引用している。

部外者が入ることはけっして許されないこの場に、余計な演出のない映像と音声を通して立ち会う169分はあまりにも短い。

 

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