生存戦略(なぜ『青白い炎』なのか)

近況についてのエントリーを書いていなかったので、唐突に『青白い炎』を論じ始めたりして、具合でも悪くなったのではないかとご心配をかけたかもしれない/かけなかったかもしれない/かけなかっただろう。

これには浅いわけがある。年初、思い立って長年の懸案であった実家(わたしが相続した無人の古家)の解体に踏み切った。大きな問題は、10年以上にわたって書庫として利用してきたこの空家がなくなるために、蔵書(といってもたいしたものではない)の整理と移動に手をつけざるを得なくなったことである。必要な本を搬出した後のことを考えなければならない。IKEAの本棚を3つ買ってきて組み立て、レンタカーを借りて段ボールを運び、いま生活している部屋にある本と書庫に置いていた本を計7個の本棚に並べるという一連の作業に従事した。わたしはこういった大掛かりな(でもないけれど)計画的整頓ということを人生においてたぶん数回程度しかやったことがない。たったそれだけのことで、と呆れられるとは思うが、結局3か月ほどかかって以上の工程を完遂した。同時に進行していた家屋の解体工事のための手続きなどもけっこうややこしく、ブログが停滞した次第である。

それとナボコフに何の関係があるんだといえば、coincidence でござる。ナボコフの本にはこの20年くらい無沙汰していたが、昔片っ端から読んでいた時期がある。それで蔵書に彼の本が10数冊含まれていた。ペンギン版やドン・キホーテ講義のハードカバーの原書も出てきた。捨てるべきかどうか迷ったのだが、何となくまた読みそうな予感がしたので、段ボールに詰めて持ってきた。その中に、筑摩世界文学大系「ボルヘス/ナボコフ」の、“箱”も含まれていた。中身はない。一番読みたかったのが(ずっと未読のまま放置していたので)代表作『青白い炎』。にもかかわらず箱しかないのは悔しい。そこでペンギンのペーパーバックを探そうと思って新宿の紀伊國屋に行ってみた。時代錯誤も甚だしいと言うべきだろう、今は紀伊國屋にそんなものは置いていないのである。それどころかナボコフのナの字もない。こうなると(そんなことをやっている場合では全然ないにもかかわらず)なおさら読みたくなる。そこでアマゾンUSでVintage Internationalのペーパーバックを注文した。

届いたPale Fire はちんぷんかんぷんである。やむを得ずちくま文庫の『青白い炎』(改訳版)を図書館で借り、原書と翻訳を突き合わせながらようやく読了した。こういうわけだから、今回のエントリーを書く必要はまったくなかったと言わざるを得ない。ただ、件のエントリーの第3章であのような主張をあえてしたのには理由がある――キンボートの注釈を読み終えた読者の多くは、描き出された“物語”としての結末に一定の感銘を受けて本を閉じてしまい、シェイドの『青白い炎』に戻って読みなおすことはなかなかないのでは、と勝手に想像したのである。そして、そうさせる書き方こそナボコフの仕掛け、というより一種の照れかくしだろうと考えた。シェイドの詩が、ナボコフ自身のきわめて率直な信念の紹介になっていることに対する照れかくしである。『青白い炎』には、それをシェイドとキンボートそれぞれのテクストの合わせ鏡という、シンメトリックな構造にしたがって読むと見失われるものが多いとわたしは思う。そこで思い立ってあのような粗製乱造エッセイを書いたのである。しかし第3章の趣旨そのものは、一時期とはいえナボコフを集中して読んだ経験と、わたし自身の言語に対するけっこうマジな考え方に裏づけられたものであり、けっしていいかげんな思いつきではない。

さてあのエントリーを発表した2日後、わたしは岩波文庫から富士川義之訳『青白い炎』が再刊されることを知った(6月刊行とのこと)。これを知っていれば、あのエントリーの最後の章で、シャーロック・ホームズをめぐる訳注に対して批判めいたことを書かなかっただろう(エッセイの構成を変更していたと思う)。『青白い炎』を翻訳するとなれば、本当は2巻本にして1巻は綿密な訳注に費やすくらいの必要がある。しかし、ただでさえ読者を獲得しにくいこの本について出版社がそれを許さないだろう。富士川氏の訳業は、1984年の筑摩の文学大系の時点で画期的な仕事であり、いまもその価値に変わりはない。わたしも原書ですらすら理解できなかった以上、この翻訳につまらぬいちゃもんをつけるような不義理はできない。

こうなったら岩波文庫版『青白い炎』を宣伝し、みなさまに読んでいただく他はない。よってわたしのエントリーは捨石である。ナボコフの食わず嫌いのかたも、読んでみたいけれど何から読もうか迷うというひとも、『青白い炎』を読みましょう。

なお筑摩の大系の中身は、図書館から文庫版を借り出した直後に、他の書類のファイルの間から出てきた。その昔、よし読むぞ、と箱から取り出したままになっていたらしい。残念なのは、原書の注釈つきロリータが完全に消え失せていたことだ。

 

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