ソシアリスト増村保造

増村映画の魅力は千のフレーズによっても尽くせないだろう。今日はわたしが心ないひとたちの罵声を背負う覚悟で一つだけその魅力をソシアリストという表現で伝えるべく試みたい。

昨夜から今夕にかけて、わたしは増村作品のうち『卍』、『痴人の愛』、『セックス・チェック 第二の性』をDVDで見た。いずれ劣らぬ雄編であり、この作家への尊敬の念を新たにした。

映画からTVの歴史を知らない人のなかには、ひょっとしたらこれらの作品のアングルや構図について、TVドラマのようだという感想を持つ人もいるかもしれないが、それは半分誤りである。なぜなら80年代のTVドラマの、模倣されるに値する型の一つを作り出した一人が増村保造に他ならないから。

60-70年代プログラムピクチュアの特徴の一つはシネマスコープサイズ(スタンダードサイズの縦横比を横に2倍にしたもの。こうすると同じ長さのフィルムで2倍のコマが撮れる)の構図であり、この無理なサイズが要求した結果は、アップショットとロングショットの混在を上手に処理することだった(横に長い構図で撮るには対象に寄る時には思い切って寄らないといけないし、全体像を捉えるためには思い切って引かなければならない)。こういうあざといコントラストは、スタンダードの落ち着いた画面で撮られた古典映画がむしろ忌避してきたものである。しかし、シネスコとTVの登場が重なる歴史によって、これが映画からTVへ受け継がれる型の一つとなってしまった(注)。増村映画にはたとえば室内の対象に近づくアップショットと、屋外の風景を捉えたロングショットの対照を無理なく交替させる技法があって、それはいま彼の作品を見る人に、日本の2時間もののTVドラマを想起させる可能性がある(特に室内の場面との対比において、海岸、山林、工場、競技場などが用いられる場合)。

本題。増村保造についてしばしば指摘される、登場人物の強烈な自己主張(自己の欲望を徹底しようとする意欲――近代においてはどうしてもブルジョワ的またはアウトロー的なそれとならざるを得ない)について、わたしはこのブログでも一貫して掲げてきた反・説得という立場に立って、次のような見解を提示したい――あたかも強烈な自己主張の結果、教育(eg.『卍』のレズビアニズムまたは不倫への導き、『痴人の愛』の理想の女の育成、『第二の性』のスプリンターそして女性になることへのコーチング)が他者を支配下においているかのように見える場面でも、そこで撮られているのは一方から他方への説得や強制ではなく、性向の一致がもたらす相互的な交流である。もしも過剰な自我の影響力を発散するひとりのキャラクターが僥倖を通じて見出した他者をわがものとするだけなら、少なくとも上記三作品の登場人物はけっして第三者を自分たちの世界に導き入れることはなかったはずであり、第三者を導入しても壊れない(というよりも第三者を迎え入れることを積極的に要請する)相互的な関係は、両者の性向の一致が指向する“開かれ”に支えられていると考えられるからである。

わかりにくいから簡単に言えというなら言いましょう――自己主張ではなく社会の創出が増村映画のテーマだと。増村作品の登場人物たちは激烈で双対的な(恋愛の典型的なかたちは、一対の合せ鏡の中でカップルの見る像が閉じてしまうことかもしれない)愛の造型においてさえ、必ず第三者を引きこみ、わざわざ自分の愛の完遂を壊そうとする。もしいま述べていることがたんなる話のネタなら、わたしはけっしてこんなことを書かない。それこそが増村作品の魅力だと考えるからこそ、あえて書いているのです。

『卍』のたえず更新される三角関係と、その更新の一応の最終結果(岸田今日子の語りの原因となったできごと)を想起していただきたい。岸田と若尾の関係がそもそも仕組まれた結果であり、ふたりの恋愛は偶発事だったにもかかわらず、岸田による若尾の肢体の美しさの発見が若尾の性向に火を点けてしまう(この場面で岸田今日子がシーツを破りながら若尾の約束――隠しごとをしないこと――違反をなじる場面は、直後のふたりの全裸の愛撫に劣らぬ優れたショットだ)。しかし、この岸田の感動(そしてそれに対する若尾の答え)といえども、じつは川津祐介の場合の劣化コピーないしは船越英二の場合の準備に過ぎない。重要なのは、物語の核心をなしているように見えるカップル形成が、じっさいにはカップルの交替ないしは横滑りをもたらすということである。しかし、これこそ増村作品のおもしろいところだとわたしは思う。『卍』のそれぞれのカップルは単体で見れば他者を許容できないはずなのに、物語の上でも映像の上でも逆に第三者を導き入れるように努力する。このようにして形成される“社会”など現実にはあり得ないかもしれないが、ここに表現されているその姿は不思議に魅力的である。

『痴人の愛』(大楠道代のまなざし、および太ももの力によって、谷崎の原作からは完全に切り離された作品となっている)においても、たとえばダブルベッド上の小沢・田村・倉石・大楠の四人の不思議な配置に、増村ソシアリスムの真骨頂が表現されている。この作品の観客は当初から教育する者/教育される者の閉じた関係の破綻を予想するであろうが、結果的には両者の関係は第三者を取り込んで柔軟な開かれを獲得する(この作品のラストシーンで、大楠が馬乗りしている小沢に「わたしだってあんたしかいない」というのを聞いて涙するような人は全然増村をわかっていない。この前の場面で大楠が「わたしがだれとつきあっても認めるか」と念を押していたことを想起しなければならない)。このラストシーンはけっして閉ざされた痴人たちの愛を描いているのではなく、反対にこのドンキホーテ的騎乗者像(騎乗者と馬とはセットでなければならない)が、ずんずん作り上げつつある愛の社会の姿を描いているのである。

『第二の性』。すばらしい作品だ。わたしはこの作品においてのみ緒方拳を受け入れることができる。ラストでふたりだけで去っていく場面を見て、もしふたりの隠棲(日陰暮らし)のようなことを考えた人がいたとすれば、おしり百叩きくらいではすまない。この映画こそ増村ソシアリスムの精華であり、このカップルが永遠なのは、いつでも自分たちの関係を社会化できるという、その開かれにある。

注 次のエントリー「シネマスコープ映画の技法がTVドラマにもらたしたもの」http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=2039 でくわしく論じた。

【参考】 「オルフェウスの経験と共同体」http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/?p=508

 

 

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