バルテュス展

今日行った。もう一回行くつもり。

どんな画家でも多かれ少なかれそうだが、特にこの人の作品のマチエールは実物を見ないとダメである。ルネサンス絵画のフレスコに近づくためにカゼインとテンペラを重ねる技法(「読書するカティア」の少女の脚や背景の壁面――フレスコの質感を出すために構図の無理を承知であえて広々と描かれている――のみならず、モデルは節子夫人、モチーフは浮世絵であるにもかかわらず、マチエールはまさにフレスコという「朱色の机と日本の女」など)、点描画法と空気感が素晴らしい「木のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)」、シエナ派の風景画の一部を切り取ったかのようで、かつセザンヌの色彩配分が山水画の構図と同居している「モンテカルヴェッロの風景(Ⅱ)」、本展示の解説では触れられていないがフェルメールのいくつかの作品の質感を持つ「眠る少女」など、マチエールを感じているだけで息を飲む傑作がずらりと並ぶ。この規模、このヴァラエティはバルテュスに関してなかなか考えられない。

今回のレトロスペクティブのポスターに採用されている「夢見るテレーズ」にしても、頭の上に掲げて組まれた両手の上方に点描の白色が僅かにきりりと光るのであるが、これももちろん印刷物には(高精度の複製が都美術館のおみやげ売り場に置いてあるけれども、それでも)出ない。

マチエールのみならず、独特の不安定な構図(少女が椅子から崩れ落ちそうになっていたり、静物画の果物がこちらに降ってきそうになっていたり)と、ピエロ・デッラ・フランチェスカに学びながら、同時にその揺るぎなき静謐と緊張を内破させてみせる空間構成(「キャシーの化粧」「部屋」)も、実物で受け止めるのがなによりである。

今回、わたしにとって大きな収穫であったのは鉛筆とインクで描かれた「嵐が丘」の連作だ。後年の作品の、特に人物の配置に関するモチーフがいくつも出揃っているのが壮観である。バルテュスが自身をヒースクリフになぞらえ、猫と並んで後年の絵画でヒースクリフ的キャラクターを何度も登場させているのはとても面白い。

しばしば20世紀西洋絵画の文脈から浮き上がっているかのように評される画家であるが、そのマチエールと空間構成をしっかり見れば、むしろバルテュスのほうこそ約7世紀分の西洋絵画の伝統を踏みしめており、さらにそこから独自の話法を誕生させていることがわかる。だいたい(ここからは蛇足ですけど)少年の性器であればいわゆるおちんちんとして親しまれるのに(私見ではカラヴァッジオのアモールはあまり親しみやすくはない)、なぜ少女の性器がむき出しになっているとスキャンダルなのだろうか。そこらへんをじっくり考える時間を持つためにも、お見逃しなきよう(東京は今月22日まで)。

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