『荒魂』(2)

小説の文体の特徴と作品が語っているように見える事柄とを関係づけることは案外むずかしい。ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』のルソーをめぐる分析は、文学者ルソーと思想家ルソーを思いがけないやり方で関係づける。ただしこのような分析が面白いのは、ルソーの思想がその文体と同じくらい面白いからである。石川淳の小説には、思想などというものはいっさい存在しない。だから彼の小説について「作品が語っているように見える事柄」を云々する必要がそもそもないように思われる。ただし、彼の小説文体を論じる上で、それが何をどこまで表現しているのかということが問題になる局面はやはりある――それはとりわけ性交に関する記述においてである。

石川淳の小説において急所という語が出てきたら、それは性器のことである。「いつぞや潮は照子にむかつて別荘を一つやるといつたことがあつた。いいえ、會社を一ついただきますと、照子は答へた。常談のやりとりではない。そのとき、照子はベッドの上で潮の急所をにぎり、潮は潮でさかさになって、二箇のハダカはある数字のかたちをとつてゐたさいちゆうなのだから、それは祭儀の場に天地をさして誓つた約束にひとしかつた。」(『荒魂』10章)。「そして、照子はきゆつとしめた西陣の帶を解かうともしない。緞子の總しぼりの衣裳のまま、盛装した美女がハダカの秋作の上にゐた。その紫の衣裳のはなつ女の咲きほこつたかほりに、秋作は完全にあらがふ力をうしなつた。美女は眉もうごかさず、姿勢もくづさず、ただ急所をもつてきびしく急所を攻めつける。非常の技巧であった。」(同12章)。これらは先に、石川淳の小説文体を特徴づける表現のレイヤーのひとつとして挙げた、出来事の粗い記述を代表するものである。多少の色気を感じる読者もいるかもしれないが、わたしはこういう記述、とりわけ急所という語の出現を見るたびに先生またやっているな、とユーモアのほうを感じる。石川淳の文体を構成する3種のレイヤーは、しばしば不意に表現することをやめてしまうのだが、そうした表現の終息の契機として頻出するのが、いま例示したような性交の描写であり、陽根や急所をめぐる考察なのである。

読者の側もあまりにしばしば登場するこれらのキーワードに親しむほど、それらが出てくれば文章は休止し、新たな方向を目指すということを予想できるようになる。陽根にせよ急所にせよ、また書き殴ったような性交の描写にせよ、それらは文章の水準から見るとそれとは異なる水準にあるはずの事柄を指示するのであり、この意味で「作品が語っているように見える事柄」の表現に他ならない。石川淳の小説について、文体の特徴を文体が表現しているものと関係づけようとするとき、そこに認められるのは思想ではなく急所である。

(つづく)

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