『荒魂』(3)

それでは石川淳における急所とは何か。どうやら蒔き散らすもの、蒔き散るもの、蒔き散らされるもの(ファルス、精子、大地)という神話的な豊穣の三位一体とは関係がないようである(注)。また急所の目立った表現として、しばしば陽根が登場する(『荒魂』においては佐太そのものが陽根である――料亭「柏」の岩山のお披露目に闖入するその荒ぶる姿を参照せよ)にもかかわらず、急所=陽根とみなすわけにはいかないことは、先に例示した照子の場面を考慮するだけでわかる。急所は陰陽両面にかかわるのであって、それは『荒魂』においてバイセクシャルのモリが演じる役回りの重要性を通じても見過ごせない点である。

それだけではない。『荒魂』という本作のタイトルが示している通り、どうやら石川淳の構想のなかで、急所は個体的存在の性の要諦であるだけでなく、感覚と思考の中枢でもあるらしい。本作に限らず彼の作品の至るところ、登場人物は急所で感じ考える。それでは急所が思想の拠点なのだろうか。わたしはそうではないと思う。石川淳が急所で感じ考えるというとき、そこで起こっていることはしばしば感覚と思考の停止でもあるからである(これは先のエントリーで指摘した、急所の出現とともに文章が一時的に停止するという事態に呼応している)。

急所という記号のつかみどころのなさは、石川淳がこの呪文に一切合財を投げ込んだという否定的解釈にも、反対にこの記号があるからこそ彼の文章はたえず躍動の力を得ているという積極的解釈にもつながるだろう。

(つづく)

注 わたしが期待する反論は次の通りである。「いや、見かけの動物性に反して、石川淳が描く佐太の姿は植物的である。それは彼が吸い付けている花売り娘たちの形象を通して確認できる。すなわち佐太はおしべであり、花売り娘たちは花粉なのだ。ただしこの花粉を受け止める(受粉する)大地が、『荒魂』においてはまだ発見されていない。たしかにあの美しい18章で、佐太がその花粉を蒔くべき大地が「都市」であることは明らかにされている。また本作の最終場面において、まさにその受粉行列が再開されたことも。」 わたしの解答はこうである。「とはいえこの受粉がいかなる結果をもたらし得るかについては、石川淳のすべての作品をくまなく読んでも明らかではない」

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