『荒魂』(4)

『荒魂』という作品が石川淳の小説作品を読む上で特別な位置を占めている理由は、佐太という存在を通じていわば急所のありかが指示され、彼を取り巻く登場人物たちがそれぞれに佐太の正体を突き止めようと試みることである。つまり佐太のおかげでわたしたちは石川淳的な急所とは何かを探る大きな手がかりを得ることになる。とはいえ本作において佐太の正体はついに明らかにされず、中心人物のひとり阿久根秋作の考察を借りれば、それはせいぜい次のように把握することが可能であるにすぎない。佐太は花売り娘たちを従えた夜の行列の後、明け方には子供のように無心に眠ってしまうという情報を得た秋作はこう考える。

「秋作は女の胸の中からあらぬ考のはうに寝がへりをうつた。おそらく照子は日の出とすれすれの一瞬に佐太がなにほどのものか見かけだふしでないところをずばりと突きとめようといふのではないか。そのとき、もしこれに値をあたへるとすれば、おそらく1か。元来佐太はどこにひそみ、どこにうごき、なにをしてゐるともゐないとも見當のつかぬやつである。こいつがすがたをあらはしたときには、ひとは恐怖の砂に目つぶしをくつて、正體を見やぶつてやらうとしても、とたんにその姿は騒動のかなたに消えてしまふ。そこにゐると見たときは、すなわちそこにゐないとき。その出沒の間にこいつの値をもとめるとすれば、どうしてもゼロとするほかあるまい。このバカでかい風車野郎の見かけのぐるぐるまはりはじつは正體すつからかん。それを見たやつ、すなはち見そこなつたやつが見當ちがへの觀測に迷ひこむだけのことになる。こいつが死んだやうに眠つたところは、もしそれが事實ならば、なるほど目を迷はせるぐるぐるまはりが1に収束したかたちと見えないこともない。すくなくとも、照子はそこに見どころありとしてゐるやうである。いや、照子の計算にとつては、さう見ることが、そこに佐太の急所を突きとめうるとおもふことが都合よしといふわけだらう。しかし、1に収束したと見たものはたちまちゼロに發散してしまふかも知れない。すでに収束が考へられる以上、發散もまた同時に考へられる。都合がよいもわるいもあつたものでない。すべての都合に係らず、佐太は眠りまた眠らない。すなはち、この毛むくぢあらは絶えず1とゼロのあひだに振動してゐるように見える。秋作はそのやうに見た。さう見たはうが、秋作のアブクの考にとつて、つまり都合がよかつた。その振動を手でつかまなくてはならない。振動はどこまでつづくか。」(『荒魂』20章)。

「そこにゐると見たときは、すなわちそこにゐないとき。」『荒魂』冒頭、「佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。」と呼応している。

(つづく)

 

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