『荒魂』(5)

「佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。」

佐太は出生と同時に埋め殺され、殺されると同時に再生する。彼の二度目、三度目の生を養ったのは大地であり、穴であった。佐太の再三にわたる誕生は穴からあたかも転がり落ちるかのように地表に這い出ることで果たされる。ここには花売り娘たちの形象と並んで、佐太の植物性を想定する根拠が認められるかもしれない。

照子と佐太とがはじめて対面する場面で、彼が陽根と化して照子に迫るのは、照子のほうが陽根主義者であることから容易に説明できる。佐太自体はといえば、奪うことがそのまま与えることに他ならない夜ごとの花売り娘たちとの饗宴と行進を経て、陽根の一義性を脱していく。巨人にして胎児、生ける者にして死せる者、見える者にして見えない者という両義性の獲得を、佐太の再植物化と言ってもあながち間違いではないだろう(いま指摘した両義性は植物の生の特質だからである)。

石川淳の小説文体において、急所の出現が文章を停止させる役割を負っていること、『荒魂』に関して言えば、そうした急所そのものが、佐太を通して主題化されていることを指摘してきた。ここで『荒魂』の文体の4番目のレイヤーを取り上げ、荒ぶる魂という表現対象から再び文体の水準に戻ろう。というのも4番目のレイヤーとは、荒魂を鎮めるための歌に他ならないからである。先に挙げた3種のレイヤーは、急所の登場によって突然停止し、そこで文章は宙吊り状態になってしまう。しかし反対に、佐太の現前が祭祀という形式を通して描き出される場面では、歌が響きだす。

「突然、歌がおこつた。三穂が歌つてゐる。さういつても、これが三穂の聲だらうか。男さびて、ものものしく、なにかが乗りうつつたとしかきこえない歌聲であつた。

春野の草にあそぶ子は
踏む足もとにおもひきや
穴に落ちなば闇の中
草と萌ゆるもそらだのめ

夢の橋絶えてむなしき春の水

石のおもしのおもければ
日のさす方もなさけなや
土のふところ奥ふかく
音に出でて泣くすべもなし

おぼつかなきのふの花はけふの土

三度くりかへして歌ひ、二つの短句は三人聲をそろへて呪文のやうにおそろしげに唱へた。照明までふつと暗くなり、まつしろな衣裳に飾つた玉だけがぶきみに光つて、歡楽の宴どころか、鎭めようとしても鎭まらないたましひをいつき祭る儀式と知れた。」(『荒魂』26章)。

 

カテゴリー: 文学, 石川淳   パーマリンク

コメントは受け付けていません。