『田園詩』

繰り返し見たくなり、何度見てもおもしろい映画といえば、わたしの場合小津作品だ。溝口、成瀬、フォード、ホークス、ラング、ロメールらのいくつかの作品も、もちろん折に触れて見たくなるし、見れば再発見があり、こちらの映画の見方の変化がわかる。これに対して小津の場合、再発見とか映画の見方などを置いて何度でも見たい。好きな音楽を繰り返し聞くのに似ている。
特に「晩春」以降の小津映画には、カット、せりふ回し、劇伴(音楽)にバロック音楽の通奏低音や4ビートのベースを思わせるリズムがある。リズムの均整に立脚した愉楽などと言うと言葉のほうが先走っているかもしれないが、こうした小津の魅力に匹敵する魅力を持つ映画は少ない。
その数少ない作品のひとつが、オタール・イオセリアーニ「田園詩」である。この映画にも、均整の取れた映画言語固有のリズムがあって、それはとりわけいくつかの簡潔な素材の反復(おじいさんが運ぶ積み藁、未舗装道路をガタガタ走るコルホーズのトラック、汽車の行く音、カルテットの練習、村人が傾けるワインのコップ、野鳥や家畜の声など)と、それらを捉える見事なカメラ(パンとアップは入念に計算されているにもかかわらずさりげなく実行され、アングルの即興的な微調整もとてもリズミカルである)によって表現されている。そしてこれこそがこのエントリーを書こうと思い立った主な理由なのだが、作品を通して、劇伴ではなくオンの音楽としての通奏低音がじっさいに鳴り響く。というのは、本作が描いているのは、夏の休暇の間、田舎で合宿練習をすることになったバロック音楽のカルテット(ヴァイオリン、チェロ×2、スピネット)と、彼らを迎え入れる村人たちとの交流および村の生活であり、通奏低音チェロ奏者の女性(彼女がもっとも練習熱心である)は、アンサンブル練習の合間に、しばしば指ならしのエチュード(ピアノのレッスンならハノンに相当する単調な音型の反復からなる曲)を弾いて過ごすからである。
チェロのこの単調なエチュードが、田舎の生活のエピソードに重なって、非常に繊細で均整の取れたリズムを形づくる。本作をご覧になっていないかたの誤解を除くために付言しておくと、「田園詩」は“ほのぼのとした牧歌的な時”を描いた映画ではけっしてない。反対に本作の表現は一貫して厳しく、シナリオが先に要約したような内容でなければ、だれにでもブレッソン作品に匹敵する緊張を感じさせるだろう(先に小津作品の魅力をリズムの均整に立脚した愉楽と形容したが、わたしはブレッソンにもそれと同質の、張りつめたトーンがもたらす快楽を感じる)。「田園詩」は楽しい作品だが、その楽しさはあくまで映画言語と音楽のリズムの均整を受け止める際に生まれるそれである。
この映画の音楽と音の扱いは新鮮だ。先にあげた通奏低音は、エピローグでチェロ奏者が都会の自宅に戻り、行政府の高官であるらしい父をはじめとする家族と再会する場面にまで流れ続けている(帰宅後も彼女は相変わらず同じエチュードを練習するから)。カルテットが田舎に到着する直前の場面では野鳥と家畜の声の他に、列車の走る音がかすかに響いているし、カルテットの練習中、それを遮る田舎の農作業の物音、わざと練習を邪魔しようとするいたずら者が出す音、農薬散布のプロペラ機のエンジン音などがかぶさる。音楽のためのシーンには、隣家の夫婦が歌う民謡をカルテットのメンバーが録音し、夜中にテープを早送りするところや、終幕近く、立ち去ったカルテットが残したレコードを宿泊先の娘エドゥーギがひとりで聞くところ(ターンテーブルの回転速度が微調整され、流れる音楽の音程が変わる)など。わたしが特に好きのは、後半コルホーズのトラックの荷台に乗った村人が遮断機の降りた踏切越しに列車を見やるときに流れるドン•ジョバンニのデュエットである(第1幕、ツェルリーナとドン•ジョバンニの二重唱のうち、ツェルリーナを誘惑するドン•ジョバンニのパートのみが聞こえてくる)。オフュルス「快楽」の、田園を訪れる娼婦たちの場面(モーツァルトのモテット、アウェ•ウェルム•コルプスが流れる)同様、映画の中にしかない他ならぬここを描きながら、その上さらに外の世界への憧憬を描いてみせるこの贅沢さ。
それが存在する以上、映画は新たな表現を開拓していくに違いないと考えさせる作品のひとつが「田園詩」である。特にこの作品の音楽と音の扱いはこれからも映画制作の重要な規範となり得る。

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