共同体の誕生

『白い汽船』(1976年、ボロトベク・シャムシエフ監督)に登場する共同体の破滅と再生の神話は興味深い。

キルギスの山深く暮らす民に残る共同体再生に関する伝承は、民の出自を鹿に育てられた男の子に求めている。昔この地域には互いに反目し戦をやめない複数の部族があった。ある時その中の一部族が、対抗勢力からの急襲を受け、語り部の老婆ひとりを残して全滅してしまう。戦いのさなかに一人の母親が赤ん坊を収めた籠を抱えて逃げようとするものの、後ろから矢に射られた母は死に、彼女の手を離れた籠は川から湖に流れ出る。

村中が死の静けさに包まれ、人間の業をひとり憐れむ老婆の前に、忽然と一頭の立派な白鹿が現れる。鹿は湖に入り、赤ん坊を載せた籠に近づいて、その角に籠を掛けて岸辺にあげようとする。老婆は言う、「おやめなさい。その子を憐れなこの人間の世界から自由にしてやりなさい」。鹿は答えて「わたしにはこの赤ん坊が不憫でなりません」。「しかし、あなたが助けようとしている人間は、いずれあなたがたを捕らえて殺すことになるのですよ」「いいえ、わたしがこの子を我が子として育てます。兄弟姉妹である鹿たちを、どうしてこの子が殺せましょう」。これを聞いた老婆は「それではあなたの望むようになさい」と言う。

さて鹿を親に持った男の子はすくすくと育つ。年頃になると鹿が選んで連れてきた美しい少女と結ばれ、やがて子宝にも恵まれる。すなわち共同体の再生である。しかし幾世代かを経て、語り部のことばも人々の記憶から遠のくと、彼らはその出自を忘れて鹿を狩るようになり、戦を始める。鹿たちはようやく人間の業に呆れ、彼らの守護をあきらめて去っていく。

映画では、湖に入って籠に近づき、角に籠を引っ掛けて岸辺に運ぶ白鹿の映像が見事に撮られている。どのようにしてあれを撮影したのかちょっとわからない。それはともかく、このエピソード(70年代のキルギスの寒村に暮らす森番の祖父が孫に語って聞かせるという設定である)を映像で見、おじいさんの語りで聞きながらわたしが考えていたのは、近代国家成立以前に共同体の滅亡は茶飯事であり、ときには(鹿の守護はともかくとして)偶然生き延びた成員が新たな共同体を創り出すこともあったということだった。このブログは、何度かそのような原初の共同体を主題にしてきた(「オルフェウスの経験と共同体」「ソシアリスト増村保造」など)。ただし今日取り上げた神話にしてもそうだが、この手の話は共同体創世記的な物語として受け止められそうな気がする。しかしじっさいに既存の共同体が破滅の縁に立たされなかったとしても、共同体の周縁には常にそこから逃れつつある一対の男女というものが存在する。しばしば映画や文学が描く共同体とはそうした周縁にいるカップルのことであり、これはわたしたちの現実であろう。もちろん近代国家であっても容易に壊滅する可能性があることは歴史が教える通りだから、キルギスの神話を文字通りに受け止めてもかまわないとわたしは思う。けれどもそれを荒唐無稽とみなす人も多いだろうから、わたしのほうも譲歩して、革命とは既存の共同体の周縁に位置する一対の男女から始まるという結論に落ち着けよう。以上をもって、今日初日を迎え、『リオ・ダス・モルテス』と『ホワイティ』で大入り満員となったファスビンダー映画祭2014への祝辞に代えさせていただきます。

 

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