エディ・コンスタンティーヌ祭について

ファスビンダー映画祭2014 の2日目は『アメリカの兵隊』、『聖なるパン助に注意』、『あやつり糸の世界』という実に心憎いセレクトである。何が心憎いのかと言えば、エディ・コンスタンティーヌ祭であることだ。こういう組合せはアテネ主催ならではである(わたしは関係者ではありません)。

『アメリカの兵隊』については、『悪の神々』の二番煎じではないかという声も届いてきそうですが(コメントをください)、それがどうしていけないのですか? イングリット・カーフェン(ファスビンダーは「カヴェーン」と発音していたそうです――出典は『ファスビンダー、ファスビンダーを語るⅠ』)がマグダレーナ(ポルノ本の売り子にして情報通)役から歌手役に昇格し、いよいよ彼女の俳優としての真価を発揮し始めるのを目の当たりにしたり、ホテルのメイド役のマルガレーテ・フォン・トロッタが『不安が魂を食い尽くす』のストーリーをそのまま先取りした長い独白を披露したりと、それだけでおもしろいではないですか。

『聖なるパン助』については多少の弁解が必要かも知れません(パン助がパン屋さんのことではない点については除く)。ゴダール『軽蔑』、トリュフォー『アメリカの夜』、ヴェンダース『事の次第』などを引きあいに出す前に、そもそも映画というのは出発点において多少ともバックステージ物としての性格を持っていたことを思い起こしてほしいのです。たとえば『国民の創生』、『愚かなる妻』、『寵妃ズムルン』などのサイレントの大作を見ていると、スタッフが働く姿こそ映し出されてはいないにせよ、そこには制作現場の混乱と秩序とが如実に表現されています。日本の映画にも『残菊物語』や『浮草物語』のような、間接的に映画制作の内幕を垣間見せる古典的作品が存在します。いま例にあげた諸作がいずれも巨匠の手になるものであることについて、わたしはそれを偶然だとは思いません。映画史に残る優れた仕事をなし遂げた作家たちは、一個の完成された世界を現出させるわざに長けていればいるほど、同時にそのような世界が生み出される惨憺たる過程についてのドキュメントを残しています。ファスビンダーのような映画作家がそのフィルモグラフィーに『聖なるパン助に注意』を持つということは、この意味で必然であるとわたしは考えます。

たしかにこの作品に出演したシュレーターが、映画というのは本質的にこうしたものだと考えたとすれば、その功罪については別に考察する必要があるでしょう。しかし、当のファスビンダーがシュレーターの生き生きとした語りを冒頭に置いたことを、わたしたちは見過ごすべきではありません。なぜならファスビンダー自身、『リオ・ダス・モルテス』や『聖なるパン助に注意』の路線をまっしぐらに突き進みたかったのかもしれませんから。(デスマス調は疲れるのでここで終わります)。

『パン助』で監督を演じたルー・カステルは『群盗荒野を裂く』の主演俳優であり、エディ・コンスタンティーヌはレミー・コ―ションと『アルファヴィル』の俳優としてだけでなく、そもそも歌手として知られており、ふたりともファスビンダーが熱烈に支持した人物である。ようやく映画作家としての名声を確立しつつあった彼が、憧れの俳優たちを招いて、アンティテアーターのメンバーたちとのセッションを試みる。ルー・カステルやエディ・コンスタンティーヌがどう感じたかは置いて、招いたファスビンダーの立場から考えると、こういうバックステージ物を撮らざるを得なくなった理由も理解できなくはない。これを積極的に言えば、『軽蔑』のフリッツ・ラングや『事の次第』のサミュエル・フラーに匹敵する待遇を彼らに対してしたということになるかもしれない(映画の出来は正直に言ってこれらの作品と比べ物にならないとわたしは思う)。

『あやつり糸の世界』はファスビンダー作品のなかでも特に複雑な性格を持っているので(ストーリーのことではない)、ここでは作品を論じることは控えるが、エディ・コンスタンティーヌの登場が明らかにしている通り、『アルファビル』へのオマージュが随所に見て取れる。『聖なるパン助に注意』と『あやつり糸の世界』とを並べるとそこに自ずから見えてくるもの、それは映画を制作するということそれ自体についての問いかけである。この意味で今回の映画祭でこの2作を2度にわたって並べて上映することには大きな意味がある。

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