ワン・ビン『収容病棟』

『収容病棟』には明確な政治的主張がある――エンドロール前の字幕が語る内容にその主張が要約されている。いわく、作品の舞台となった雲南省の公立精神病院の患者たち(男女あわせて200名ほど)は暴力性の有無を問わず同じ病棟(注 男女はもちろん別である)に収容されており、彼(女)らは自発的にでなく、家族、警察、裁判所の訴えによってここへ来た。そのなかには殺人を犯した者、一人っ子政策に従わなかった者、過度に信仰をあらわにした者、街頭で暴力をふるった者、放浪癖を持つ者、挙動不審な者等が含まれ、その他に統合失調症、強度のうつ、コミュニケーション障害等の患者がいる。彼らには自ら治療費を支払う能力がない。

日本での本作公開に合わせて来日したワン・ビン監督のインタビューを読むと、監督自身もインタビュー記事の執筆者も、作品の政治性を前面に出さないように心がけていることがわかる。類稀れな資質を持つこの監督が今後もこれまでのペースで映画を撮り続けるために、こうした配慮が必要であることをわたしも理解している。しかし、『収容病棟』のどこがすぐれているのかを論じようとする際に、本作のもつ激しい政治的主張に言及しないことは無意味である以上に過ちである。先に引用した字幕の文章に触れて、わたしたち観客が思い返すことは、たとえば信仰過剰な者とは礼拝を欠かさないイスラム教徒であり、挙動不審とされる者のなかには政治犯が含まれ(収容棟から解放される患者のシーンで、突然「ぼくらはインターネットで知り合った恋人たち」と歌い始める青年や、恋人のぬくもりを思い出すために同室の患者のベッドに潜り込んでピロートークを始める元大学教員などは、おそらくそうした政治犯たちだろう)、見舞いを欠かさない一方で患者である夫を絶対に家に呼び戻そうとはしない居丈高な(おそらくは繊細な心遣いの持ち主なのだろうが、夫の前で見せる振る舞いはそう見える)妻のエピソードが明らかにしているように、家族と地域社会の外れ者は容易にこうした病院に収容されてしまうといった事態の意味である。本作が映像化した場所は収容所なのであり、病棟ではない。よって先のワン・ビン監督へのインタビュアーが、本作の真価を政治的主張でなく人間ドラマに求めたことについて、わたしはそうした評価こそ政治的バイアスがかかったものと考える。

インタビューによれば、雲南省のこの精神病院での撮影許可は監督の友人を介してすんなりもたらされたという。周知の通りワン・ビンの作品は中国国内では上映が禁止されており、彼の活動実績についても同国ではほとんど知られていない。北京の精神病院が頑なに撮影を拒否したのに比べて、雲南での撮影が予想外にスムーズだった背景には、単純に当局の無関心が奏功したという事情があったのかもしれない(深読みをすればワン・ビン作品が中国映画の価値を高めこそすれ下げることはなかろうという一種の黙認かもしれない)。しかし、本作の映像・音声とエンドロール前の字幕の告発とが、ワン・ビンのこれまでの作品とは比較にならないほど中国政府の姿勢を刺激する可能性は否定できない。わたしがこうした言わずもがなの点を強調している理由は、この作品が告発する不当な監禁あるいは収容という国家権力の暴力が普遍的な問題だからである。このすぐれた作品をだしに、中国の収容病棟の特殊性を批判するといった愚挙に出る意図はわたしにはさらさらない。検察の信頼が地に落ち、いまも未解決の冤罪事件を多く抱えている日本の実情を鑑みるだけでも、不法収容というこの問題は対岸のものではないことがわかる。

もちろんこのブログが映画を取り上げる以上、ここでの議論が映画というジャンルのあり方(可能性)の考察から逸れることはない。ではいま指摘した政治性は、本作の表現にどう反映しているのだろうか。撮られる側のふるまいと表情にというのがわたしの意見である。本作の被写体となっている人たちは、『三姉妹』の少女たち以上にカメラに対してあっけらかんとしているかのように見える。しかし、アディダスの黒いキャップをかぶった注射好きの人(夜は自分の下肢に「同志のおかげ」等の、朝になって今度は紙に「道徳的思想」等の文字を書きつけている人――朝のショットで壁際のポジションにまわりこむあのカメラワークには驚く)の、あるいは唖者を意味する同地語で呼ばれている患者の、あるいは二人部屋の二人の馬さんのうち独身者の方の人のカメラ前でのふるまいと表情を見ていると、彼らがカメラを意識して行動していることがわかる。意識というのが言い過ぎなら、カメラの存在とともに行動のしかたを変えている。三者はいずれもカメラに執拗に追われることを嫌ってはいないのだが、長回しの後半では少しずつそのふるまいをエスカレートさせる(そういうケースだけを選択したわけではないことは、先のインタビューから明らかである)。これはあくまでわたしの推測にすぎないが、この収容病棟の患者たちは日頃互いに他者に関心を持たず(関心を持ったらここでは生きてはいけない)、したがって自分が他者から見られているという事態に不慣れであって(医師さえも彼らを本気で診察することはない)、だから執拗にカメラで追われるときに少しずつ自分をあらわにするのではないか。本作の表現の特質は、収容された人々のそうしたふるまいと表情を捉えたことにある。ところで収容ということの一端を、現に収容されている人々のふるまいと表情を通して見せ、聞かせるという以上の政治性がはたしてあるだろうか。

もうひとつ本作の表現の際立った普遍性をあげれば、それは収容される者と外部の者との関わりを鮮明に形象化していることである。恋女房のエピソードでは、ともに収容されているものの、男性/女性の階によって仕切られているふたりが、互いに外部の存在であること(男のもとにやってくる女は、あたかも外からやってきた面会者のように鉄格子の向こうから彼を抱擁する)、二人部屋の馬さんの居丈高な妻のケータイから流れるポップ・ミュージックと彼女が持ち込むマンダリン・オレンジ(見ている側にまで匂いが伝わる)、収容されたばかりの患者が娘の面会のときに見せるあの狼狽、反対に長年収容された患者が解放されるシーンとその後日譚(彼の実家と彼の再度の放浪の場面でのカメラワークにわたしは特に惹かれる)等々。これらのエピソードを撮影できたこと自体にまず驚くが、やはり真に驚嘆すべきはそれらをわたしたちが見るように配列・編集した技術である。

繰り返して言うが、この作品の政治性は普遍的であり、この映画が告発しているものはわたしたちの日常に隣接している。中国政府に対して特に言いたいが、この作品をいま日本で見る者は、むしろ日本の現状を思うはずである。そういう映画を届けてくれたワン・ビン監督とスタッフに感謝したい。

 

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