カメラを持った監督

『収容病棟』がもたらした興奮がなかなか覚めない。『三姉妹』のカメラについてakatukiyami 氏は、少女たちにとってカメラマンは自分についてくる従順な家畜に似た位置づけという卓抜な指摘をされた。なるほど稀にカメラ目線になるときの彼女たちは、カメラに対して「こっちよ」とか「じゃましないであっちへ行ってて」と促しているように見える。
『収容病棟』のカメラ(1台のそれを監督自身ともうひとりのカメラマンとが交代で使用している)はだれからも見られることのない存在を見ることを通して、視線による批判を実践する。先のエントリーで指摘したように、この作品は狂気を映し出しているのではなく、不当収容という自らの置かれた立場を訴える手立てを失った人々のふるまいと表情を捉えることで、言葉に替わる表現をもたらそうとしている。いっぽう被写体となった人たちはカメラを持った監督を未来の収容者とみなしている。本作には一箇所、カメラを持った人物が収容者の言葉に答えるところがある(黒キャップの文字を書く若者が注射の後に調子を崩し、わたしたちには受け止めようのない苛立ちに捉えられながら「歯が痛い。腐っているんだ。先生に伝えてくれよ」と頼むのを受けて)。若者が先生への言づてを頼む以上、カメラマンが彼にとってまだ病棟外部の存在であることを示唆するけれども、彼の訴えにうんと答えてしまう瞬間、カメラマンの方は収容者になりつつある。
実際ワン・ビンのこのプロジェクトには自身が収容される危険が伴っていた。そういう危険を犯すことを果敢と形容するつもりはない。むしろ本作のカメラを持った監督は、収容された者、だれにも見られない者としての自身を見る想像力を持っているのだと思う。

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