ベロッキオ『ポケットの中の握り拳』(“I Pugni in Tasca”, 1965)

『ポケットの中の握り拳』(“I Pugni in Tasca”, 1965)のルー・カステル演じるアレッサンドロ(癲癇を持つ次男)は、黙っていればいい男だが、動き始めればバスター・キートンばりの、あるいは精巧な機械仕掛けのコメディアン=アクターである(ルー・カステルという役者がではなく、あくまでもルー・カステル演じるアレッサンドロが、である)。

優れたコメディアン=アクターは、いっしょに登場するキャラクターを自分の精巧な運動に巻き込んで即興的に機械装置を組み立て、自分と仲間たちがその部品であるかのような動きを主導する。

たとえばカステルの登場シーン――庭木からぴょこんと飛び降りた彼は、弟(アレッサンドロより重い障害を持つ三男)を押しのけてウサギ小屋からウサギを一羽つかみ出し、こいつは今日から俺のものだと宣言する。あるいは家庭教師をしてやっている子供が落第点を取って彼のもとを訪れれば、低能、白痴、くずと罵倒しておいて成績表を書き換える。盲目の母の顔面のすぐ前で空手の技のような手さばきをして母に「今日は風があるようね」と言わせ、彼女のためにいやいや新聞を読んでやり始めるものの、すぐに紙面を投げ出してありもしない三面記事をでっちあげる時の一連の動き(母のほうは身動きしないけれども、カステルの運動の軸の一つとして、機械仕掛けの主要な部品と化している)。母を断崖から落下させるべく穏やかに誘導する場面――カステルのやさしいいたわりの動きと声が、怯えつつも息子を信用して少しずつ崖まで歩む母のその挙動と重なり、優雅でグロテスクなメカニズムを作りだす。母の通夜の場面では、ジュリア(パオラ・ピタゴラ演じる美しい長女)とともに彼は棺の中の母を中心に衛星のように舞い、かつてはジュリアの偏愛の対象であった一家の長兄アウグスト(亡き父の代わりに自分が犠牲となって家族を養っている)に取って代わろうとする。そして母の遺品をジュリアとアレッサンドロが窓から次々に投げ捨てるシーン――すでにこの時姉弟は関係を持っており、二人の挙動はぴったり息が合っている。しかしながらそのジュリアも、カステルが三男まで殺したことを知ってついに絶叫し、階段から滑落していく――この場面、まずジュリアの絶叫を正面から撮り、続いて手すりにしがみつきながらも階下に向かって急速にすべり落ちる彼女を階段の左斜め下から引いて捉えるシークエンスはヒッチコック流である(母が盲目であることをまだ明らかにしない家族の最初の食事や、“自動車レース”の場面も同様)。カステルの勝ち誇った表情と、ジュリアのこの滑落も、物語の凄惨さにヴェールを被せれば優れて喜劇的な組合せになっている。

もう一つぜひ指摘しておかなければならないのは、アレッサンドロの三男殺しを知った衝撃のため昏睡状態に陥ったジュリアとアレッサンドロのショットである。せっかく盲目の母から解放されたのに、これからはジュリアの介護をしなければならないのか、と嘆いていたアレッサンドロは、ジュリアが覚醒したと知るや一転して大いに喜んで見せる。まったく何を考えているのかわからない男だが(たぶん何も考えていない)、彼の目の前で覚醒するジュリアは、あたかも棺の中の母親が復活するのを見るかのようである。ベッド脇で相変わらず妙な挙動をしているルー・カステルと、蘇った死者のようなジュリア。神聖な喜劇に固有の運動をここに見ることができる。

一連のショットにおけるルー・カステルと彼に巻き込まれる他のキャラクターが生み出す運動はこのように一貫してコミカルであり、カメラのほうもカステルがへんな顔をしてみせれば即座に寄るし、彼がフレームの左右を大きく移動するときには鋭くパンする。ベロッキオ自身によるシナリオが次男の家族殺しによって崩壊していく一家という救いようのない物語でなければ、演技も台詞もカメラワークも、一流の喜劇のそれである。当然のことながら1965年当時の観客と批評家は、ベロッキオのシナリオと演出を一体として見て衝撃を受けたのであり、そうした衝撃は今日の観客の中にも起こり得るだろう。しかし、たとえば同時期の『殺しの烙印』のシナリオは『ポケットの中の握り拳』以上に不可解で凄惨であるけれども、今あの作品を見て、宍戸錠が愛している真理アンヌを殺さなければならないのが衝撃的だといった感想を述べる人は少ないのではないか。

とはいえわたしは『ポケットの中の握り拳』を優れた喜劇だと言って称揚したいわけではない。ベロッキオのシナリオは本作の演出同様素晴らしいと判断するし、パゾリーニが贈ったという「イタリア的小市民の持つ良識を、ますます掻き回してくれる」という賛辞(今回のベロッキオ特集のちらしによる)も的外れだとは思わないからである。ではすでに指摘したカステルが巻き起こす喜劇的なメカニズムという“目に映るもの”と、連続的に家族を殺していくアレッサンドロおよび彼とジュリアの関係という“描写されたもの”との結びつきは、どのように小市民たるわたしの良識を掻き回すのだろうか。

簡潔に言うと、映画の唯物論を目の当たりにすることによって、わたしは自分の良識が掻き回されていると考える。映画の唯物論とは、ふだんわたしたちが意識とか感情とか、ときには魂などと呼んでいる人の心を、目に映る運動の効果として差し出すこと程度の意味である。本作が採用している一貫した喜劇的書法は、わたしの目を登場人物たちの運動へと釘づけにする。同時に棺の中の母、ジュリアとアレッサンドロの束の間の意気投合、母に代わって“復活”するジュリア、しばしばカトリックの教義を口にするアレッサンドロ(母を崖から突き落とした直後には、「麗しき救いの御母」などと不謹慎な言葉を吐いている)等々の“描写されたもの”を知解しつつ、わたしはそこにどのような感情も表現されておらず、仮にジュリアやアレッサンドロに感情移入しようとするなら、得られる結果は完全に恣意的であるという事実を認める。たとえばカトリックの教義を口にしたり十字を切ったりするアレッサンドロと、母の棺に脚をかける彼との間に矛盾や欺瞞を見出すことはできない。なぜなら彼にはおそらくいっさいの感情がないからである。

少しだけ脱線させていただきたい。わたしたちは他人の心、もう少し限定して他人の感情の存在をうかがい知ることはできないとはしばしば言われるし、この主題は現代の哲学の大ネタの一つである。しかし意識とか感情の存在という話を突き詰めるのならば、自分にそういったものがあるというのはいかなる意味かを考える必要がある。わたしが感じる喜怒哀楽が言語的・文化的習慣の結果でないとどうして言えるだろうか。他人の笑顔を見て学ばれる楽しい気分は、そのうち習い性になるかもしれない。つまり他人の心の存在を疑うなら、まず自身の心の存在を疑えということである。

わたしは別に心の存在を否定するつもりはない。そうではなくて心の存在を徹底的に疑う立場があり得ると言いたいのである。『ポケットの中の握り拳』が、ルー・カステル演じるアレッサンドロと彼が引き込む登場人物たちの運動を徹底的に凝視する(=撮る)いっぽう、同時に神学的な主題を“描き出す”時、そこに表現されるのはこうした唯物論である。

そして、本作の唯物論的アプローチが決定的な表現を取るのはラストシーンにおいてだ。ルー・カステルは『椿姫』のレコードを聞きながら苦しみ抜いて死んで行き、隣室のジュリアは彼の許に行こうとして結局行くことができない。この時観客が思い出すことは、カステルが癲癇の患者だということである。彼の苦しみは身体のそれなのであり、死に臨んで彼にはおそらくどんな感情もない。このラストシーンは映画における苦悶の表現としておそらく比類のないものだ。しかも本作の神学的主題がもっとも明瞭に現れるまさにその場面において、癲癇という設定がいっさいの神学を退けてしまう――唯物論的神学を除いて。奸計と知恵の区別がつかないような、驚異的な作品である。(8月1日、シアター・イメージフォーラムの「ベロッキオ特集」で)

 

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