ペッツォルト『あの日のように抱きしめて』――映画のメロドラマの系譜における

劇映画におけるメロドラマは、恋愛のはじまりやその帰趨(恋の成就または挫折)の表現によってではなく、結末に至るまでの迂路によって特徴づけられる。恋するふたりはさまざまな障害に直面する――事故やすれ違いなどの偶発事、恋敵の横やりや親の反対といった他者の妨害、さらにはその背後にある身分や階級の違い、社会の偏見、掟または法、国境、革命と戦争。メロドラマ性の核心にあるこうした迂回の表現が、恋人たちを妨害するこの世のあらゆるできごとを劇の素材として呼び集める。だからメロドラマの観客は、恋人たちが恋愛に熱中すればするほど、恋愛よりも彼らを邪魔だてする社会とそのからくりの方をたっぷり見せられることになる。

メロドラマをめぐってしばしば扇情性が指摘されることも、結論をなかなか出さないというこの特性と関連する。ある表現が観客にどんな感情を引き起こすかといった議論は無意味なので、観客の側の感情は脇に置き、メロドラマが様式化された表現を好んで使う事実の方に注目しよう。初期の劇映画が参照したオペラや大衆演劇などを(日本の場合歌舞伎を含めて)想起すると話が早い――逢瀬や別れの場面で流れるメロディ、舞台上で凝固する恋人たちの形姿、事切れる前に長々と続く台詞や歌等々。映画の場合でも、クロースアップ、暗闇から人物を浮かび上がらせる照明、重要な場面での劇伴(テーマ音楽)の使用といった、やり方次第では扇情的と感じられる表現の例は多い。こうした様式は、19世紀のオペラや演劇、そして1960年代までの劇映画の一部では、「お客さんを喜ばせるために」開発されたと考えられる。特に大衆相手の芝居においては、観客もすでに筋を知っている出し物から、どれだけの魅力を引き出すかが演出家の腕の見せどころだった。つまり予想がついている結論を先延ばししながら、一定時間、舞台を見せるために効果的な表現が求められたのである。

歌舞伎や大衆演劇が時間をかけて作り上げてきた様式も、当初は舞台上の試行錯誤の産物という側面を持っていたはずである(傑出した演技者と演出家が短期間になし遂げた「発明」を否定するつもりはない)。映画の場合でも、クロースアップやアイリスアウトなどの技法は、グリフィスの天才と試行錯誤とが結びついて生まれたと言われている。そして当然のことながら、いまは扇情的と呼ばれかねない表現技法も、誕生当初はお客さんをおおいに沸かせたのであり、恋愛を扱うドラマにおいて、それが実際は結論の先延ばし策に過ぎないとは受け取られなかっただろう。

しかし、メロドラマの歴史は長く、映画は出発点においてすでに前世紀の遺産(オペラや、歌舞伎を含む演劇)を継承していたのである。すると映画の観客の中には、先行する舞台作品のメロドラマ性を知悉している者がいて、わかりきった結末に向かうくだくだしいまわり道や、「扇情的」な演出法に既視感を抱いたかもしれない。もし劇映画のメロドラマが、こうした観客からの批判に答えることができずに、既存の様式の上にあぐらをかいていたとしたら、いまごろは映画におけるメロドラマ性を論じる意味さえなくなっていただろう。

幸いなことに、1960年代までにオフュルス、サーク、溝口、成瀬らが撮った作品が備えているそれぞれ独自のメロドラマ性は、既存のそれを継承しているだけでなく、同時に将来の作品(映画に限定されない)による継承に耐えるものである。たとえば『天はすべて許し給う』(All That Heaven Allows, 1955)は、愛し合うふたりの抱擁を捉えるショットのアングル・照明・劇伴、彼らを妨害する一連のものごとの描写、愛の断念から成就への展開などの点で、既存の映画のメロドラマ性を抽出して定着させたかのような作品である。恋愛を邪魔している社会的な要因も凡庸であり、メロドラマが持つ裏返しの社会批判的な性格(冒頭指摘した通り、恋愛の帰趨に至る迂路において、観客は恋人たちが直面する障害としての社会をしばしば見る)もほとんどない。にもかかわらず、いやむしろ既存のメロドラマの様式だけを徹底的に可視化/可聴化したからこそ、この作品は次の世代以降の表現者たちにメロドラマとは何かを理解させることに成功している。それだけではない。この作品は映画にしかできないメロドラマ性の表現を開拓した。第一に水車小屋が少しずつふたりの新生活の場に変化していく描写。ラストシーン(窓の外の情景を含む)は、恋愛の場所それ自体がストーリーとともに変化し、恋愛の帰趨を包み込むという、おそらくいまだ開拓し尽くされてはいないメロドラマの表現を差し出している。第二に恋愛の成就/非成就を宙吊りにする終幕。たしかにジェーン・ワイマンはロック・ハドソンがふたりのために築いた「ホーム」へと帰ってくるが、再会が恋愛の成就であるかどうかは両義的である。一見ハッピー・エンディングであっても、その映像自体は死別の描写そのものだからである。

『近松物語』(1954)について言えば、近松門左衛門の世話物を下敷きにしているという事実が、構成のメロドラマ性を容易に予想させるけれども、実際に創造されている表現はひとつとして既存の映画を再認させるようなものではない。この作品はジャンルを超えて例外的に存在する、古くなることができない表現のひとつである。たしかにはじめから結論が提示されており、途中のできごとはすべて結論に至るまでの迂路なのだが、それぞれのエピソード、それぞれの表現が結論を無化しようとしている。言わばメロドラマの様式は偽装に過ぎず、ふたりの出会いとふたりの愛の帰趨とは、彼らが途中で経験するできごとの余白に過ぎない。たとえば別れを決意した後、耐え切れずに香川京子のもとに戻ってくる長谷川一夫が、坂道をジグザグに駆け下る後ろ姿を追うクレーンショットと、再会した香川の脚にすがりつく長谷川のツーショット。メロドラマの定型通り、恋愛の成就を妨げる最大の障害は恋人自身の逡巡、気後れ、断念なのであるが、既存の多くのメロドラマでは、こうした一時の断念は、断ち切ることのできない愛の表現のためのまわり道として描かれる。しかしこの作品では、断念することのできない長谷川のふるまいはほとんど狂気に取り憑かれたそれである。メロドラマの鋳型からまったく別の表現が生まれ出る瞬間をわたしたちはこの場面に見ることができる。この意味で本作品は既存のメロドラマ性から未来のそれを導き出す画期とみなせる。

『乱れる』(1964)は、戦後の地方都市を舞台に形成されつつある商家のもつれた繭から脱する男女の逃避行を描く。この作品について特筆すべきは、身を引く決意をした女、彼女を追う男それぞれの姿およびふたりの再会を、追跡と再会の場である列車の疾走の映像と並行して描くシークエンスである。前半、ふたりを取り巻く町と商家の人間関係がていねいに描かれるところでは、男が女(義理の姉)に抱く恋情は言わば繭に包み込まれて定かではないのに、いったん女がこの繭を出、男がそれを追い、はた目にはふたりの出奔が逃避行になる後半のわずか十数分で、すべてが一挙にメロドラマ性をまとう。しかもそれは列車の疾走という運動によってもっとも端的に表現されるのである。この作品は、サークによるメロドラマの完成、溝口による(あえて言えば)その脱構築から少し後の時期に製作(制作)されている。『近松物語』『天はすべて許し給う』とほとんど同時期(55年)に、成瀬は『浮雲』を撮っており、この作品と最晩年の『乱れる』との、主題および技法上の関連も見逃せないが、『乱れる』を映画のメロドラマ性という観点から見るとき、メロドラマの技術的完成を受けて、その新たな表現を模索・創造するとはどういうことかを具体的に理解できる点が重要である。

こうして映画のメロドラマは、たんに延命を遂げたのではなく、表現の完成を経て革新されてきた。サークによるこの表現技法の集大成は、たとえばファスビンダーによって1970年代に参照され、それらの技法は大胆な置換や変更を加えられた上で彼の作品に引用されている。『不安は魂を食いつくす』(Angst essen Seele auf, 1974)では、掃除婦のドイツ人老女と外国人労働者である若い男の恋愛が描かれる。『天はすべて許し給う』のプロットの基本構成(ふたりの愛を認めようとしない家族と社会の描写を含めて)を備えたメロドラマと言っていいのだが、本作品のカップルを恋人として見ることのできない観客に対する挑発と、恋愛を妨げる社会的要因への告発とが重ね合わされている点に特徴がある。つまりメロドラマの形式を通じて、たんに既存の様式に則ってメロドラマを作り、消費する社会への批判を行なっているわけだ。

この他にも、ファスビンダーはサークから学んだメロドラマ手法の置換・変更・再構成を様々なアプローチで行なっている(『マルタ』『マリア・ブラウンの結婚』『ベルリン・アレクサンダー広場』『リリー・マルレーン』『ローラ』『ケレル』)。彼の試みは多様で徹底したものだったので、映画史を知る今日の作り手が、サークの集大成した技法を自作に移し替えるというファスビンダー的な選択をすることはめったにないだろう。もちろん現代のラブロマンスなどに、一種の映画史的な参照や作り手の好みの表明として、サークやファスビンダーの様式が垣間見えることはあるかもしれないが、作品に統一性を与えるものとしてこうした様式が採用されることは珍しい。サークの様式がそもそも度外れなところを持っている上に、ファスビンダーによるその受容の仕方も屈折の多いものだった。現代作家をしてメロドラマを忌避させる要因として、サークからファスビンダーに至るメロドラマが備えているある種の行き過ぎに目を向けておくことは重要だろう。

メロドラマの構成条件が結論の引き伸ばしにあることはすでに述べたが、恋愛における紆余曲折と結論の出にくさの主要な理由のひとつは、恋する人の狂おしい熱情にある。先に挙げた3作(『天はすべてを許し給う』『近松物語』『乱れる』)に共通するのも、恋する男のこの熱情である(熱情の持ち主が男である点は、作品が製作された時代の社会的な通念がもたらしたという以外にはほとんど偶然である)。彼らはメロドラマの形式上の要請である “恋愛を邪魔するもの”に負けない静かな激しさを持っていて、愛を断念しようとする相手に対してもあきらめずに働きかけ、説得する。それゆえふたりを妨害するできごとが次々に生じても、結局彼らはそれらを越えて行くのである。ところでこうしたタイプの作品はあまり今日的ではないだろう。たしかにある種のTVドラマやマンガなどで、半ばコミカルな設定として熱情が選ばれることはあるにせよ。しかし、メロドラマ性が持つ本質的な冗長さはこの熱情の表現に基いているので、爽やかなラブロマンスやその系統の作品からメロドラマを区別する上でも、しばしば行き過ぎと感じられる熱情の狂おしさに注目することは必要である。

するとこうしたうっとおしい熱情やそれがもたらすまわりくどい恋愛を描きたくない作り手がわざわざメロドラマの手法を採用する理由はないのに対して、うっとおしい熱情やまわりくどい恋愛(ないしは人間関係)に何らかの関心を持つ人が、メロドラマの技法に立ち返ったり、少なくともそのように見えるということはあり得るわけである。言い換えれば、サークやファスビンダーのように既存のメロドラマ的手法を意識してそれに取り組むというのとは異なり、メロドラマ自体に関心はなかったけれども、恋愛のある種のタイプや、恋愛に限らず人間の行動や関係の特定のあり方に注意を向けたことがきっかけとなって、気づいたらメロドラマの近くにいたという経路である。

おそらくいま述べた経路でメロドラマ的手法に接近している作品のひとつとして、クリスティアン・ペッツォルトの『あの日のように抱きしめて』(Phoenix, 2014)を見ることができる。彼のこれまでの作品(概要はこの記事末尾のタグ「ペッツォルト」をクリックして参照可能)同様、本作品も恋愛をめぐる映画ではない。収容所に送られる前のネリーはもはや存在していないのに、生還したネリー(変わってしまったのは再建手術を受けた顔だけではない)も元夫のジョニーも、いまは亡きネリーを甦らせようとしている。複数の人物の思念が交差し、決裂するというこの主題は、完全に『幻影』3部作に通じるが、本作品を特徴づけるのは、かつてのネリーについてまったく異なる関心を持って接近しているふたりの間の執拗な「対話」を描いていることである。たとえば『幻影』(Gespenster, 2005)のニナとフランソワーズの間には、互いの思念(まったく別々の事情から、ニナはフランソワーズを自分の母であるかもしれないと思い、フランソワーズはニナをわが子であるかもしれないと思っている)の限られた交流(数十分をともに過ごすだけである)はあるけれども、それはフランソワーズの夫の介入によって、はかなく潰える。これに対して『あの日のように抱きしめて』の場合、ネリーの幽霊(Gespenst)を別々の理由から召喚しようとしているふたりは、まさにこの召喚のために入念な対話と練習を行なう(それがこの作品の時間の大半を占めている)。『幻影』3部作の主題をネリーとジョニーの対話と行動を通して再度取り上げているだけでなく、そうすることで明確化していると言える。

わかりやすい言葉で言えば、ネリーとジョニーは失われた過去を何とか取り戻そうとしているのだが、わたしが重要だと思う点は、ふたりの人間が自分の思念を相手の身体と言葉の中で具体化しようと試みていることである(そしてそれはうまくいかない。これこそがペッツォルト作品の主題である)。さてここが本稿の主題だが、こういうふたりの相互的な働きかけは、その関係の性格からすると、ほとんど不可能な恋愛を成立させようとしている恋人たちのふるまいに通じる。つまりメロドラマ的なのである。ネリーとジョニーの関係の特徴は、前者の後者に対する固着に近い熱情(ジョニーはもういまの自分をかつてのネリーだと再認してくれさえしないのに、そのジョニーに再び自分が愛されることを期待し、この期待ゆえにどんな障害も越えて行く人のようにふるまう)と、後者による前者のねじれた受容(目の前にいるネリーがかつての妻ネリーと同一人物であることに気づかず、ネリーが生還したことにして遺産を得ようとねらっており、その企みゆえにこのネリーの接近を許している)である。

ふたりが行なう「練習」の目標は、旧友たちもそれと認める愛の絆で結ばれた夫婦の関係を装うことだ。彼らの試練はラストシーンのできごとに至るまで様々な困難を越えて続く。ここでペッツォルトが表現しているのは愛ではなく、過去に捕われた人の情念とそれが生み出す行動である(一般化すれば、現実の生活を逸脱するある種の思念を抱いてしまった人の行動)。ところがまさにこの、現実から逸脱した思念を持つ人についての表現が、映画のメロドラマ性を呼び出している。成就するにせよ挫折するにせよただでは済まない企てに乗り出したふたりが、彼らだけの秘密を共有し、濃密な対話と接触を続けながら様々な困難を越えて行くからである。たしかに異常な設定であり、これを「行き過ぎ」とみなす人もいるかもしれない。しかし、人間(あるいは人間にとって可能なあり方)に対してある関心を持ち続けてきた表現者が、その関心に沿って映画を制作する際に、男女ののっぴきならない関わりを可視化するというアイディアを抱き、それを実行してみたら、思いもよらず映画のメロドラマ性が回帰してきたというこの事態は、きわめて興味深い。

【追記】クレジットに「脚本協力 ハルーン・ファロッキ」の表記がある。ファロッキは2014年7月に亡くなった。本作はペッツォルトとファロッキの最後の共同作品となった。

【追記2】 「擬似メロドラマとしての『めまい』」に続く。(2015/9/08 追記)

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