ドイツで撮ること

ペッツォルトへのインタビュー(『あの日のように抱きしめて』――原題はPhoenix――パンフレットに所収)によれば、すっかり変貌をとげて収容所から戻ったかつての妻を、それと気づかず自分の覚えている妻の姿に変えようとする男というアイディアは、本作の原案であるユベール・モンテイエの小説『帰らざる肉体』に基いているが、そもそもこのモチーフを採用しようと監督が思い立ったきっかけは、『帰らざる肉体』を紹介したファロッキのエッセー「入れ替わった女たち」(フィルムクリティック、『めまい』特集)にあるという。インタビューから続きを引用する。

「その後、ハルン・ファロッキに会い、この本について長時間話し合った。ああいう『めまい』と強制収容所からの帰還を混ぜ合わせたような話は、フランスでしか語れないのだろうかと。数年後に僕は『東ベルリンから来た女』を作り始め、ニーナ・ホスとロナルト・ツェアフェルトが演じる恋人たちを見ながら、彼らを通して語れるかもしれないと考えた。この物語をドイツで語れるか? その方法は?」(上記パンフレットより)

映画好きならこのエピソードを知らなくても、『あの日のように抱きしめて』のネリーとジョニーの再会以降の関係を見れば、すぐにヒッチコックの『めまい』を想起するだろう。しかし、ペッツォルトの構想を当初から支えていた強制収容所からの帰還というモチーフが、『めまい』におけるキム・ノヴァクとジェイムズ・スチュアートの関係のそれと同じかひょっとしたらもっと強力だったという点は、本作品を見たり考えたりする上で重要である。監督は一作品の完成に数年をかける人であり、次の仕事までの間に先人の映画を丹念に見る(『東ベルリンから来た女』のパンフレットに収録されているインタビューなどからもこの事実はわかる)。もちろんベルリンで映画を学んだシネフィルなので、これまでに彼が見てきた映画の記憶は質量ともに充実しているはずだ。こういう作家の映画に『めまい』を思い起こさせるモチーフが出てくると、映画好きの観客はもうそれだけでわかったような気分になってしまうかもしれない。しかし、この手のテーマ批評もどきには陥穽がある――作品をモチーフに還元し、映画史的な系譜に位置づけて棚上げにするという陥穽が。

先の引用で注目すべきは、ペッツォルトが東ドイツを舞台にする前作『東ベルリンから来た女』を撮っていたときに、「『めまい』と強制収容所からの帰還を混ぜ合わせたような話」を「ドイツで語れる」という予感のようなものを抱き始めていたという点だ。監督は常々ナチが戦後のドイツにもたらしたものや、ドイツが東西に分断された時代とその今日への影響などに言及している。また一見ドイツ戦後史と無関係に思われる『イエラ』にも、東西ドイツ旧国境の横断というモチーフが隠されている。彼がクルーゲ、ファスビンダー、ファロッキらと強く結びつくのはこの点においてである。

『めまい』と『あの日のように抱きしめて』を、入れ替えられる女のモチーフで論じることはもちろん間違いではないし、たとえば昨日のエントリーで取り上げたニセのメロドラマ(pseud-melo←わたしの造語)の文脈でもこの点を取り上げることができる。ただし、そういう映画史的な視界からペッツォルト作品の持つ政治性を排除しないこと、彼が Phoenix をドイツで撮る可能性をずっと考えてきたと言う意味がそこで取り上げられる映画史の系譜を読むことを忘れるべきではない。

 

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