越境と映画(再びペッツォルトへ)

戦後ドイツ映画は、戦争を顧みる時にも国家と社会の現在に目を向ける時にもしばしば国境と向き合ってきた――前者の場合、『リリー・マルレーン』のように敵と味方を分かつ断絶あるいは侵略と反撃の前線として、後者の場合、『雨の中の銃声』のように民族を分断する戦争の傷痕として。クルーゲの初期作品『昨日からの別れ』(Abschied von gestern, 1966)では二種の国境がひとりの人物と結びつけられる。主人公アニタは大戦中に両親をナチに奪われ、戦後は東ドイツで育ち、その後西に移住する――すなわち二度の越境を経て三通りのドイツを経験するわけだ。西に来てからも彼女は居場所を見つけることなく彷徨い続ける。『昨日からの別れ』には検問所に代表される越境の映像はない。だがこの作品は、境界に浸透された日常を生きる戦後のドイツ人の姿を、アニタの足どり、彼女を取り巻く風景(廃墟を含む)と人物、それらを物珍しげに眺め返す彼女の表情を通じて描き出す。

クルーゲが、後のドイツの映画作家たちに伝えた越境の主題を比較的明確に示している作品のひとつは『感情の力』(Die Macht der Gefühle, 1983)かもしれない。この作品のラスト近くには、彼が「ふつうの」ドラマを撮っていたらいまごろはとっくにメジャーになっていただろうと思わせる、見事なノワール風/メロドラマ風エピソードがあり、そこに検問所の場面が含まれているからである(このエピソードのカップルは、その場で身を滅ぼしていたかもしれないのに、なぜか無事に国境を通過する)。

国境検問所の場面は戦後の映画に数えきれないほど登場する。ところでそろそろ打ち明けていい頃合いだろう、ペッツォルトの新作『あの日のように抱きしめて』(Phoenix)も検問所のシーンから始まるのである(『イエラ』と『東ベルリンから来た女』がニーナ・ホスの姿から始まるのとは異なり、本作品の最初のショットは彼女をドイツに連れ戻すユダヤ人支援組織の友人のアップであり、この友人が運転する車――重傷のホスは助手席にいる――がスイスとドイツの国境検問所に差しかかる場面が導入部である)。わたしが本稿を思い立ったきっかけもこの冒頭場面にある。このシーンを見て、『感情の力』、『リリー・マルレーン』、『エレニの帰郷』の検問所を想起せざるを得ないのはわたしの側の勝手な事情による(『リリー・マルレーン』には先述の吊り橋のそれ以外に、同じく忘れがたい検問所のショットがある)。しかし少なくともこれだけは言える――ペッツォルトの作品に検問所のシーンはふさわしい、なぜなら彼の作品は一貫して越境を扱ってきたから。

現代作家に対してその人が帰属する社会や文化を割り当てる試みは以前にもましてうまくいかなくなっている。たとえばペッツォルトの作品にはロメールを筆頭にフランス映画からの影響が如実に現れているし、彼は日本の観客に向けたインタビューで、自転車の使用は『晩春』に由来すると語っている(http://news.livedoor.com/article/detail/10469259/)。その上映画にどのようなモチーフや細部が現れるかは、必ずしも作家の意図によるわけではない。ペッツォルトは制作にあたって先人の作品を丹念に見直す。たとえば『東ベルリンから来た女』を撮るにあたって、ファスビンダー『四季を売る男』(Händler der vier Jahreszeiten, 1972)とホークス『脱出』(To Have and Have Not, 1944)に触発されたと彼は語っている(『東ベルリンから来た女』パンフレット所収のインタビューによる)。また、『あの日のように抱きしめて』の構想に直接刺激を与えたのはクルーゲ「愛の実験」(Ein Liebesversuch, 1998)だったとも述べている(『あの日のように抱きしめて』パンフレット所収のインタビューによる)。とはいえこうした先人たちの、とりわけドイツの映画作家の作品をペッツォルトが参照したことが事実であっても、そこからの影響が彼自身の作品に直接現れるわけではない。ひとりの作家を包み込んでいる映画史的環境(その作家が属している言語文化とは必ずしも一致しない)は分厚い圏域であり、その人が参照した作家や作品の中にもさらに多様な蓄積が層をなしている。だから一個の作品に現れるさまざまなモチーフと細部は作家の創造したものであると同時に映画史の圏域において生成したものである。

したがって、わたしがここで越境という主題を通して戦後のドイツ映画史を論じたり、その中にペッツォルトを位置づけたりすることは、あくまで分厚い圏域の一断面を切り取る作業に過ぎない。しかし、こうした作業から浮かび上がってくる作品の姿からは、作品単独の分析と矛盾しないもうひとつの側面が見えてくる。『東ベルリンから来た女』が『あの日のように抱きしめて』のいわば孵化器としての役割を果たしたことを考慮すれば、境界を内在化している『東ベルリンから来た女』の主人公(彼女は西の恋人をたよって違法な越境を試みようとしているだけでなく、東ドイツ国内でもベルリンから来たエリートとして境界づけ=差別されている)が、収容所からの帰還という『あの日のように抱きしめて』のモチーフを準備し、それが本作品の冒頭場面で形象化されたといっても間違いではないはずである。それだけでなく、こうした越境の主題は戦後ドイツ映画を貫いて(具体的にはコイトナー、クルーゲ、ファスビンダーを経て)ペッツォルトに流れ込んだと言うことができるのではないか。

『治安』(Die innere Sicherheit, 2000)の越境の描写(時代設定はEU結成後であるため、検問所の映像はない)は、欧州当局の追跡を逃れるテロリストとその娘の姿を追うかたちを取り、『イエラ』のそれはすでに消去されたはずの(しかし現存する)旧東西ドイツ国境線の横断という表現になっている。ペッツォルトのこれまでの作品に隠されていたこの主題が、『東ドイツから来た女』を経由して『あの日のように抱きしめて』に結実していることは、以上の傍証からたしかに見て取れる。こうしてペッツォルトは戦後ドイツ映画のひとつの系譜を描く上で重要な位置を占めていると言えるのである。

 

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