『西鶴一代女』の空間

『西鶴一代女』の試みは、戦前から敗戦直後の作品に見られる空間の代表的な形式、たとえば郭・茶屋・芝居小屋・舞台・茶の間から女を解放することではないか。京の大路の渺漠たる風景は、『夜の女たち』で焼土の瓦礫(ロッセリーニに匹敵する)を撮ったことを契機のひとつとしているように思われる。

『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』においても、男が作った隷属の体制に反抗する女という主題は明確である。しかし、そうした女にふさわしい場所はまだ十分に獲得されていなかった。溝口は『夜の女たち』の焼け跡・瓦礫・廃墟においてそれを発見する。そして『西鶴一代女』でも、女たちは焼け跡を行くように京の大路を彷徨う。

敗戦直後の数作品で溝口が試行錯誤しているという評価もある。仮に試行錯誤があったとして、戦後の風景から何を撮るかの模索と見ることはできないだろうか。わたしには溝口ほどの人が、国家の滅亡とそれに伴う価値転換程度のことで自分の表現に迷うなどということがあるとは思えない。迷いがあったとすれば、目の前に見えているものを自分の映画制作にどう活用すべきかという点をめぐってではなかったか。『西鶴一代女』が見る者にもたらす爽快さは、わたしたちが生きるための空間として瓦礫と空虚を描いたことにあるとわたしには思える。

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