谷崎「蘆刈」と溝口『お遊さま』

溝口健二『お遊さま』(1951)は谷崎潤一郎「蘆刈」に取材している。後者は能「芦刈」をモチーフの一つとしており、エピグラフ「君なくてあしかりけりと思ふにも いとゝ難波のうらはすみうき」も同曲からの引用だ。

能「芦刈」は、貧窮ゆえに妻と離別し、難波の浦で芦を刈って売り歩く商売をしている男と、いまは高貴な家の若君の乳母となった元妻が再会し、ふたりは再び結ばれるという物語である。

映画の中には謡曲「芦刈」が引用される箇所が二つある(どちらも谷崎の原作に相当する場面はない)。第一はお静と慎之助が結婚した後、お遊と三人で旅行に行く場面。慎之助がシテを、お遊がツレを謡い、それをお静が聞いている。

「(シテ)君なくてあしかりけりと思うにぞ いとど難波の 浦は住み憂き/(ツレ)あしからじ よからんとてと別れにし 何か難波の 浦は住み憂き/(シテ)げにや難波津安積山の(…)」

君と別れたのは悪しきことだったと思うにつけ、芦を刈る難波の浦は住みづらい、と男が言うと、いいえ、よかれと思って別れたのです、難波の浦は住みづらいなどとおっしゃらないでくださいと女が答える(シテとは能の主役、ツレはシテに沿う役のこと)。

第二は慎之助によって再度「芦刈」が謡われるラストシーン――永遠の別れの場面である。お遊が何不自由なく暮らしていることを知った慎之助は、「君なくてあしかりけりと思うにぞ いとど難波の 浦は住み憂き/あしからじ よからんとてと別れにし」の箇所を謡う。つまりよかれと思って別れたと言うのは、ここでは男の方である。

いっぽう映画のなかほど、箏曲の場面でお遊が演奏するのは「熊野(ゆや)」であり、これは谷崎「蘆刈」の設定を踏襲している。慎之助と叔母が部屋に入るところで、ちょうど「熊野権現(ゆやごんげん)の移ります 御名も同じく今熊野(いまぐまの)」に差しかかり、間奏(箏の独奏)を経て「山の名の 音は嵐の花の雪 深き情けを人や知る/春雨の(…)散るを惜しまぬ人やある」の箇所まで続く(中略がある)。

溝口の映画には原作の夢幻的な導入部も結末もない上に、主要人物三人の姿と関係を映像化したことによって多少の無理が生じている(原作では芦原で男が語る言葉こそが、三人の関係の支えになっているのだから)。しかし、ナレーションに類する「語り」の構成なしに、三人の関係をあえて彼らの配置と動きだけで捉える宮川一夫のカメラは素晴らしい。謡曲「芦刈」と箏曲「熊野」の挿入もわたしにはおもしろかった(それ以外の、オフに流れている音楽はない方がいいと思う)。

原作でもこれは同じであるが、お遊と慎之助、その間に入るお静の三者は、それぞれに徳を備えた人物で、けっして誓いを破らない。彼らが住む世界に、三者三様の誓いを同時に許容する解がないことは悲劇的にも見える。だが、彼らはそれぞれ最善の道を貫くのであり、妥協も敗者もなしに物語は完結する。俗流リアリズムからはほど遠い設定であり、わたしはこういう言わば「極論」を撮る溝口を興味深く見る。後年監督自身は本作について、会社の意向に妥協した面もあったと述べている(たとえば「蘆刈」でなく「お遊さま」というタイトルにしたことなど)。だが、すでに谷崎のこの作品を原作に選んだ段階で、普通の映画に終わらないことは明らかである。映像については、宮川一夫という名手を得て、原作に媚びない映画になった点を評価すべきであろう。

付記 WEB上のいくつかのサイトに、『お遊さま』 ラストの慎之助の謡いを「熊野(ゆや)」とする誤りがある(正しくは「芦刈」)。「溝口健二 大映作品集Vol.1」所収のDVD で謡曲と箏曲のシーンをチェックし、このエントリーの記述通りで間違いないことを確認した。本作品ラストシーンの謡曲を「熊野」とする誤りの連鎖は、作中の(原作でも)箏曲が「熊野」であることに由来する。今回わたしの記述がその周辺に集中したきらいがあるのは、この誤りを訂正しておきたかったという理由もある。

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