『女優須磨子の恋』

溝口健二『女優須磨子の恋』(1947)は『歌麿をめぐる五人の女』に続く戦後第三作だ。新劇運動の先駆者島村抱月と女優松井須磨子の半生を描いているといえば、時代劇から現代劇へ再び戻ったのかと思われるかもしれない。しかし、ここでの溝口のタッチは『残菊物語』(1939)のそれ――芸道物にして人情物――に通じ、『歌麿をめぐる…』の表現からがらりと方向を転じたという印象は与えない。

『残菊物語』は、自分との身分違いの恋が原因で名門から追われた歌舞伎役者を夫に持つ妻が、地方の芝居小屋を回りながら芸を磨く夫につき従い、縁の下から彼を支えて立派に中央の大舞台に復帰させるという「芸道物」の典型的な作品だ。戦前までの身分制と道徳規範を話の根幹に据え、主人公お徳がいかなる状況でも夫を立て続ける姿をこれでもかという徹底ぶりで描く。そこに一ミリも揺らぎがないことが感動的で、たとえば夫の転機となる大舞台では、その姿をお徳は袖から見守るのではなく、舞台下の奈落で一心に祈りを捧げるのである。『上海特急』のディートリッヒの祈りのそれと並ぶみごとなショットだ。そしてラストの溝口史上最高のクロスカッティング。お披露目のために川船の舳先に立つ晴れ姿の夫と病床の妻というあまりにも様式的な設定を、荘厳な船の移動撮影と光を落とした室内のコントラストで描いた。

『残菊物語』の偉大な達成に比べれば、『女優須磨子の恋』はそのパロディに過ぎない。山村聡演じる島村抱月は入婿として妻と義理の母に頭が上がらず、『人形の家』のノラ役として須磨子を見出し彼女と恋に落ちてからは、須磨子に引っ張り回される。須磨子とともに旗揚げした藝術座が興行的に失敗して地方巡業に出れば、抱月は須磨子の付き人同然で、次第に大衆向け芝居に堕して行く藝術座からは離反する者も現れる。『残菊物語』の男と女の立場がほとんど入れ替わっているのである。

それでも稽古の場面で、抱月の執拗なダメ出しに答えて何度も演技をやり直す須磨子や、彼女が大舞台の数々をこなす箇所は見応えがある。次作『夜の女たち』の娼婦役が戦後の田中絹代の画期となったことは事実だが、すでに『女優須磨子の恋』の舞台上で、彼女は体当たりの演技を見せている。戦前の芸道物では、作中で俳優を演じるのはもっぱら男優の役割だったが、戦後この分担を逆転させることが可能になって、おそらく初の試みを彼女が引き受けているからである(注)。女優として女優を演じる先例は日本に少なかったので、たとえ『残菊物語』のパロディとしてであっても、こういう試練に堂々と応じた田中絹代はすごい。

彼女と山村聡は後に『武蔵野夫人』で共演する。山村という人にはどこかコミカルな雰囲気があり、『武蔵野夫人』でもそれが遺憾なく発揮されている。『女優須磨子の恋』の抱月はなんだか頼りない感じがとてもよい。須磨子から移された風邪がもとで彼女の公演中に亡くなってしまうというエピソードは事実に基いているのだろうが、本作の山村にぴったりの場面だ。

新劇という近代芸能の革新運動、そして須磨子と抱月の不倫スキャンダルという、戦後映画らしい設定を使用したとはいえ、この作品のテイストはやはり溝口ならではのものだ。『女性の勝利』から『歌麿をめぐる五人の女』へ、そしてこの『女優須磨子の恋』を経て『夜の女たち』へという進み行きは、題材だけから見ると定めなき変転と感じられるかもしれない。しかし、映画を物語や題材で見てもあまり意味はない。この時代の溝口健二は、何を撮るかという点では片っ端からいろいろな題材にぶつかっていくが、どう撮るかという点ではけっしてぶれてはいない。たしかに予算の制約で、まだ大がかりなクレーン撮影などは控え目だが、それぞれのプロダクションに可能な限り多彩な移動撮影とロケーション撮影をバランスよく取り入れており、特に各作品とも空間設計が巧みである(セットでもロケーションでも)。50年代の最高峰を仰ぎ見てから40年代作品を見れば、物足りない点が多々あって当然だが、そういう見方がすべてではない。

『女優須磨子の恋』は YouTube で全編見ることができるが、今回わたしは松竹が出したDVDで見た。高画質である。

注 同じ1947年に、山田五十鈴主演・衣笠貞之助監督による『女優』が公開されている(やはり松井須磨子の生涯に取材)。こちらはその年のキネマ旬報ベストテン第5位と高い評価を得た(『女優須磨子の恋』は同ベストテン入りはしなかったものの、1947年の毎日映画コンクール女優演技賞を獲得している)。公開時期は『女優須磨子の恋』が8月、『女優』が12月であった。

追記 一つだいじなことを書き落としていた。離縁以来始めて、先妻が抱月(の亡骸)と対面する場面についてである。須磨子が「申し訳ございませんでした」と詫びると、先妻は「あんたはちっとも悪くありません。悪いのは夫です」と答え、これを聞いた須磨子はひどく動揺する。それ以上何の説明もなくこの場面は終わるが、須磨子が動揺するのは、抱月の先妻が自分をまったく彼の妻と認めてはおらず、抱月の遊びの相手あるいは妾としか見ていないことが明らかだからである。須磨子はちっとも悪くない、悪いのは夫だ、という言葉が意味しているのは、いわゆる不倫の関係においても、男がすべての責任を負っており、女は男によって動かされるに過ぎないということに他ならない。しかもこう言い切ることを通じて、先妻は依然として自分が抱月の妻の座にあると宣言しているのである。この場面で溝口は、一見華々しく舞台を生きた須磨子を取り巻く時代の価値基準が、『残菊物語』のそれと何ら変わりがないことを鋭く指摘している。こういう描写ができる人が、はたして戦後の価値転換を前に揺らいだりするだろうか?

 

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