『雪夫人絵図』

雪夫人はほとんどこの社会と関わりを持たない。夫の蕩尽を見守りこそすれ、彼女にそうした欲求はない。宏壮な屋敷の空間を除いて彼女は居場所を持たない――芦ノ湖に忽然と姿を消す前からすでに、彼女はたった一つの場所を守っている幽霊である。

幽霊の主な属性は頑固さにある。『雪夫人絵図』(1950)のそれも無窮動風の執拗さで同じふるまいを繰り返す。夫は雪夫人が自分を捨てることはないとたかを括っているが、取り憑かれているのは自分の方なのだ。夫の暴虐に周囲のだれもが怒り、決然たる態度を夫人に促すけれども、彼女は自分のたった一つの場所を守っているだけなのだから、何を言っても無駄である。映画にとってこの頑固さと無窮動は、繰り返されるできごとをその都度異なる映像で撮っていくために格好の設定だ。だからこの時期の溝口作品の中で、『雪夫人絵図』は際立って映画的な映画だと言える。

同時期の溝口作品はほとんどナレーションを使用していないが、本作品には冒頭濱(久我美子)が一人称で語る導入のそれがある(同郷の雪夫人にずっと憧れてきた濱は、夫人のお傍に仕える女中になる)。物語は一貫して彼女の視点から語られていると言ってよく、この点も媒介する視点なしにいきなり作中のできごとにのめり込む、溝口作品のいつもの手法とは異なる。理由の一つは本作が濱の言わば幽霊体験を描いていることにあるのだろう。

女中として屋敷に上がったその晩から、久我美子は夫婦の同衾の様子を見せつけられる。この場面の終わりに雪夫人が脱ぎ捨てた帯留めのアップがある。濱は同じ帯留めをラストシーンの芦ノ湖で拾い、湖中に投げ捨てることになる。ラスト近く、山のホテルのレストランに現れる雪夫人と直後の「消失」は彼女が本格的に幽霊になってしまった様子をよく表現しているが、彼女の最後の足取りを知っているのは、あの帯留めを拾って捨てた濱だけである。つまり冒頭からラストまで一貫してこの作品は久我美子の映画でもある。

幽霊体験を語る久我美子の準一人称の(自由直接話法のと言ってもいい)純粋映画というふうに、わたしは『雪夫人絵図』を見た。

空間設計は凝っているようでそれほどでもない。熱海の邸宅は旅館になる前からどう見ても旅館だし、屋敷の母屋と離れの間を行き来する人物のショットや、屋敷と山のホテル、あるいは屋敷と京都の旅館を繋ぐ編集も溝口としては普通だと思う。しかし静物画風に挿入されるつくばいや花瓶、箱根を行くバス、芦ノ湖の芦原を歩む雪夫人などのショットは魅力的である。せっかくの純粋幽霊映画なのだから、凝った映像と照明をもっとたくさん見たいというのは欲張りだろうか。

 

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