特集溝口健二編集後記

『女性の勝利』から『西鶴一代女』に至る溝口健二9作品を集中的に見てわかったこと。

1) 女性主人公の長いモノローグと行動の描写が、全9作品の核心をなしている(『女性の勝利』でのそれは弁論という特殊な形式を取るが、その結果モノローグの凝縮度は高まっている。よってこの作品を戦後作品の系列における例外とみなすことはできない。)

2) 移動撮影とワンシーン・ワンカットはどの作品にも現れる(特に主人公の独白や思いつめる様子を捉える場面)。クレーン撮影は『夜の女たち』のラスト近くと、特に『武蔵野夫人』および『西鶴一代女』で効果を上げている。

3) リバースショットはほとんど用いられていない。例外は『武蔵野夫人』での、前庭を挟んで向かい合う母屋書斎(夫の部屋)と離れの書院(勉の部屋)それぞれの部屋から相手を見る、深度のあるリバースショット(前庭には夫と勉の間に立つ田中絹代がいる)。空間そのものの描写、あるいは人間関係(この例では三角関係)の表現と結びついた特殊な表現技法である。

4) 主人公が捉えられている観念の表現。『女性の勝利』では司法民主化と伝統的道徳規範の間の葛藤、『歌麿をめぐる五人の女』では愛人を殺し、錦絵に描かれた自分に同一化して生霊となるおきた、『女優須磨子の恋』では新しい女を演じることと実生活上の恋愛の乖離、『夜の女たち』では男に復讐すること、『わが恋は燃えぬ』では女の自立のための本当の戦いとは何か、『雪夫人絵図』では人間としての強さとは何か、『お遊さま』では誓いの貫徹、『武蔵野夫人』では道徳と人間の役割、『西鶴一代女』では愛の自由。主人公はこれらの観念をモノローグと会話を通して断片的に伝えようとするだけであり、けっしてそれらが作品全体の主題として映像化されることはない(すなわち象徴的な映像手法はほとんど用いられない)。しかし、こうした観念の描写を取り去ってしまったら、溝口作品から言わば映像の磁場が失われてしまうだろう。たとえば主人公たちはしばしば自滅的な行為に及ぶが、こうした行為を準備する理由として、彼女たちが捉えられている観念が不可欠である。自分の弱さに苦悩する雪夫人の描写においてさえ、彼女の悩ましげな姿態と表情以上に、どうやって弱さを脱却すべきかをめぐる対話と、そこでの夫人の語りが根幹をなす(彼女が夫に屈してしまうときも、解かれる帯ではなく、別れないでという夫人の言葉の方がいっそう重要である。つまり情念よりも観念が主要な役割を果たしている)。また『武蔵野夫人』では、映像の強度(蝋燭を一本灯しているだけの室内にいる二人)に支えられて道子の道徳観念が表白される嵐の場面こそが全作品の核心となる。ワンシーン・ワンショットと移動撮影は、たんに俳優の自発的な演技を引き出すだけでなく、作中人物が抱いている観念の表現のためにも必要なのである。

5) セットとロケーションの絶妙な組合せ。そして作品ごとに異なる映像の質感。これは撮影監督との協働を溝口が自分の仕事の特性として積極的に位置づけていることの現れだろう。この観点からすると、溝口の戦後前期9作品はどれをとってもレベルが高い。50年代に入って、予算面でそれ以前よりも余裕が出てきたという事情を別にすれば、『武蔵野夫人』と『西鶴一代女』に向かって作品ごとに映像が洗練を増していくといったリニアな見方は的はずれである。『歌麿をめぐる五人の女』の空間構成と撮影技法の分析を通して明らかにしたように、敗戦直後と言っていい時期にも高水準の作品を彼らは撮っている。たしかに戦前キネマ旬報ベストテンの常連だった溝口が、40年代に『夜の女たち』を除くヒット作に恵まれなかったのは事実である。とはいえこの時期の作品が魅力に乏しく、本格的な復活は52年以降という通念は妥当ではない。

 

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