擬似メロドラマとしての『めまい』

先にわたしは、映画のメロドラマ形式の特徴として、恋の結末(成就であれ悲恋であれ破局であれ)に至るまでの間の冗長な迂回(しばしば恋愛そのものよりこれを邪魔するものが描かれる)をあげた(「ペッツォルト『あの日のように抱きしめて』――映画のメロドラマの系譜における」)。そして映画には、表現の契機という以上の重点を恋愛とその帰趨に置かず、登場人物の状況と彼らの関係がもたらすまわり道そのものを主題化することが可能であるため、メロドラマを志向していないのにメロドラマめいて見える作品があることを指摘した(このタイプをpseud-melo と呼ぶことにする)。ペッツォルト『あの日のように抱きしめて』(原題 “Phoenix”)はその代表的な作品である。

ところでこの作品の構想のきっかけにヒッチコックの『めまい』があるということは、メロドラマならびにpseud-melo 双方の系譜にとって興味深い。なぜなら『めまい』において、恋愛しているように見える主人公二人のふるまいは偽装であり、背後で二人の関係を演出している人物のシナリオゆえに彼らの「デート」は冗長に引き伸ばされている上に、その「演出家」が去った後、今度は主人公たち自身が前半のできごとの変奏を通して前半と同様かそれ以上に冗長な迂路を作り出すからである(『めまい』の素晴らしさは、前後半の互いに照応する迂路を実にみごとに描いたことにある)。映画後半の彼らの関係も恋愛とは呼べない。なぜなら第一にマデリンの再生という妄執に取り憑かれたスコッティ(ジェイムズ・スチュアート)はジュディを見ておらず(マデリンはジュディが演じた架空の存在である―両者を演じるのはキム・ノヴァク)、第二にジュディはスコッティに対する裏切りと犯罪への加担から罪責感の虜になっているらしいからである。

『めまい』の表現手法は、人物の表情をきめ細かく追う点では一見心理主義的である。しかし、前半でも後半でも、スチュアートとノヴァクが何を感じ、何を考えているかはわたしたちには結局わからない。たとえば前半、サンフランシスコ湾に飛び込んだマデリンを救ったスコッティが、彼女を自宅に連れて行って介抱し、目覚めたマデリンと初めて会話する場面から、翌日のセコイアの森のデートまでのどこかで、彼の方だけでなく彼女も愛を感じたはずである。マデリンを演じていたジュディが、「いつか」スコッティを愛するようになっていたという点は、後半の彼女の手紙が証言している通りだ。たしかに波打ち際でのキスシーンは二人の間の恋愛感情を表象している。しかし問題は、この場面でさえマデリンが半ばは演技をしているということである。わたしたちはある場面で彼女の表情が何か特定の心理を表現していると言うことはできない。前半のノヴァクの表情は曾祖母が憑依した女あるいは精神疾患を抱えた人のそれであり、後半のできごとを知った上であらためて振り返れば演技者のそれであって、彼女が何を感じ考えているかは謎に留まっている。

前半のスチュアートの方はどうか。たしかにマデリンの自殺未遂(の偽装)後は、彼女を見る表情と彼女に対する言葉にはっきりと変化が生じている。マデリンに惹かれ始めてからの彼の顔つきと仕草は典型的なメロドラマの恋する男の表現と言ってよい。しかし、マデリンの行動を追跡していたときのあの不審の表情が恋する男のそれに転換するのはいったいいつなのだろうか。この点についてはマデリンの場合と同じく決定的なことは何も言えない。

後半になると、二人の行動はほとんどどのような心理状態も再現しなくなる。スコッティは前半の悲劇の後、精神を病んで入院加療しており、ジュディとの出会いまでに、どんな病状の変化があったかは語られない。ただ彼がジュディをマデリンにしようとする行動が、おそらく妄執めいた何かを表現するということだけは推測できる。だが、こういう曖昧模糊とした推測にはあまり意味がない。わたしたちはただ彼のふるまいに注目することしかできない。ジュディについても事情は同じである。彼女の手紙によれば、彼女はかつてスコッティを愛していたし、いまも愛している。しかし、スコッティの要求を前にした彼女が見せるのは、そこに不安と恐怖を読み取っても的外れではなさそうな表情である。つまり彼女が何を感じ考えているのかは、ここでもわからない。

こうした表現手法を心理主義と言うのなら、それは心理描写ゲーム主義というような意味合いにおいてだろう。観客が心理と解釈するようなものは、何であれ状況と行動からの推測――そこでは社会慣習と映画の語りの様式に由来するいくつかのルールが想定されている――以外の何物でもないからである。一般にメロドラマ形式は恋人たちの心理を追うことからはかけ離れている。なぜならそこではどちらかが熱烈に相手を愛することが大前提で、あとは一方がそれに答えて大恋愛になり、数々の試練を乗り越えた後に何らかの結末に至ればよいのだから。つまり心理はゲームのルールに付随するお約束である(それを描かなくても、恋人たちの行動を通してここで彼らはこう感じているものとする、という解釈が可能)。すると『めまい』の擬似心理主義も、メロドラマ形式のそれを踏襲していると言えるわけだ――ただし、スチュアートとノヴァクについての「心理描写」は通常のメロドラマの約束事に従っているとみせかけて、それらをことごとく覆すのであるが。

メロドラマの冗長性の重要な特徴として、音楽の執拗な随伴をあげることができる。これは時としてできごとの起伏やこれに付随する人物の心理を代行するものとして使用される。しかし、オフュルスやサークの完成されたメロドラマでは、しばしば音楽はできごとそのものであり、何かを代行すると言えるような補足的な機能ではなくなっている。『めまい』のバーナード・ハーマンの素晴らしい音楽も、できごとの構成要素として全編に「登場」してくる(こういう音楽の使用も、メロドラマのゲーム性の一つとみなすことはできるかもしれない。しかしいまはこの論点には深入りしない)。

『めまい』は恋愛をではなく、恋愛の偽装がもたらす迂路の冗長さを描いている。しかもそこに見られるのは心理の再現ではなく、具体的な読解が不可能な心理をめぐるゲームと呼べる表現である。この意味で『めまい』にはpseud-melo の純化された表現手法があると言える。

(「ポスト・メロドラマからファスビンダー、シュレーターへ」に続く)

 

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