ポスト・メロドラマからファスビンダー、シュレーターへ

様式の成熟は新たな様式を準備する。映画のメロドラマ形式が50年代までに爛熟し、陳腐なステロタイプに見えるようになっていたとき、メロドラマの殻を破って、つまりこの形式の特徴を受け継ぎながらそれに甘んじない表現を伴って、従来とは異なる試みが生まれる。『めまい』、『近松物語』、『乱れる』等々。

これらの作品はメロドラマから次のような特徴を引き継いでいる。

1 二人の主人公の間の密接または複雑な関係。

2 一方の主人公がもう一人に対して抱く過剰なまでの情熱。

3 二人の関係を引き裂こうとする状況とできごと、およびそれらによって生じる関係決着の引き伸ばし(これまで「まわり道」または「迂路」と呼んできた事態)。

4 見せかけの心理主義。メロドラマでは、恋に落ちること、繰り返される逢瀬、恋を邪魔する諸事態との直面、何らかの決着といった各場面で恋人たちの表情が入念に捉えられるにもかかわらず、それらは心理や情緒の再現とは言えない。なぜならこのような場面での表情のショットは、ドラマ進行上の約束事(たとえば出会った瞬間恋に落ちる、恋い焦がれつつ逢瀬を待つ、もう会うべきではないと言い聞かせながらすぐその決意を翻す等々)であり、これらを撮ること自体が様式の一環だからである。もちろん観客は俳優の顔と身振りの美しさに魅せられ、時には感情移入するだろう。しかしそうした観客における効果は、メロドラマの様式に従う諸要素――シナリオ、俳優の容姿と演技、背景、それらを捉えるショット、音楽など――によってもたらされたものであって、心理描写に由来するわけではない。同じくメロドラマという呼称を使っても、映画と文学の間で大きく異なるのがこの点である。映画の心理描写は、(ナレーションを除いて)表情や仕草のショットを通して行なう他ないので、いまわたしが述べた事例は立派な心理描写ではないか、という反論もあろう。しかし、文学作品の心理描写が分析的であるのに対して、映画における表情と仕草のショットはたんに提示するだけだ。そしてメロドラマに顕著なのは、映画一般に認められるこの特徴を様式化していることである。メロドラマという呼称から、何か情緒的な演出が連想されることもあるかもしれないが、映画のメロドラマ形式の場合、作品の側に「情緒的」表現はないと言うべきである。情緒的な作用はもっぱら見る側に生じるのであって、作品の表現が観客にどう働きかけているかはブラックボックス内に留まる。

さてメロドラマの殻を破って生まれてきた新たな作品たちにも、関係の始まり、激しい情熱とそれを邪魔するものとがもたらす関係の迂回、関係の決着という一連の場面があり、それぞれの場面でメロドラマ同様、二人の主人公の表情と身振りが入念に捉えられ、しかもそれらはかつての様式を部分的に受け継いでいる。ところがそのようにして捉えられた彼らの表情の「意味」は、同時にメロドラマの型を壊そうとしている。『めまい』において二人が実質的に出会うのは尾行中に起こった自殺未遂をきっかけとしてである。ここで仮にジェイムズ・スチュアートが恋に落ちたとしても、キム・ノヴァクは失神したふりをしている。典型的なメロドラマにも、一方が勝手に一目惚れする設定はよくあるけれども、相手が失神したふりをしているなどという設定はむしろコメディのものだろう。観客は、彼女を救った後の彼の部屋での二人を見ながら、そこにメロドラマめいた設定を認めつつ、同時にこの女は何者なのか、そしてこの男は女にどんな感情を抱き始めているのか、といった考えを持つはずだ。この点は、先ほどブラックボックスと呼んだ事態とはまったく異なり、ヒッチコックが厳密に計算した結果であることに注意してほしい。シナリオと映像とが、メロドラマ的表現とそれを裏切る効果を同時にもたらすように仕組まれているのである。したがって、このような表現はメロドラマが約束事として使ってきた心理や情緒の様式化を踏まえ、そうした「型」とは別の何かを生み出そうとする試みだと言える。この意味で、ポスト・メロドラマは先行する様式が持っていた擬似心理主義を引き継いでいるわけである(とてもひねくれたやり方で)。

5 音楽の執拗な随伴。メロドラマという語は、それが生まれた18世紀後半には、台詞や詩などの語り(叙唱でも歌でもない)と、これに随伴する器楽作品(インストゥルメンタル)の組合せを意味していた。ほぼ同時期のオペラ作曲家ラモーは、自分のオペラからアリア、合唱、舞曲、叙景用のインストゥルメンタルなどを抜粋して組曲にまとめているが、おそらくこうした試みの中から生まれた音楽形式である。20世紀の映画においてメロドラマというジャンルを名指しする場合、18世紀のこの音楽形式とは直接の関係はない。むしろ両形式の間にあるロマン主義のオペラと演劇、そして20世紀初頭の大衆演劇を映画のメロドラマの源流と見るべきである。とはいえ演劇に音楽を結びつける試みは古代にも中世にも存在し、それが西欧で一般的になるのは初期オペラと音楽形式としてのメロドラマによってであったことを考慮すると、映像作品としてのメロドラマを生み出した一つの淵源に音楽を認めることは間違いではない。

映画のメロドラマにはサイレント時代以来音楽がつきものだった(無声映画の場合、伴奏はピアノや小編成のオーケストラが受け持っていた)。当初音楽は「伴奏」の地位を出ず(いまでも一部のTVドラマに名残りを留めている)、また映像だけでは表現しきれない情緒や心理の描写を担うことも多かった。しかし、オフュルスとサークの作品では、音楽がしばしば映画の中のできごとのように、あるいは登場人物の一人のようにふるまう。たしかにドラマに随伴するという音楽の機能は初期映画から引き継がれてきた通りだが、映像の演出とともに、映画音楽の方も一種の進化を遂げているのである。

ポスト・メロドラマの作品においても、しばしば音楽ができごとの構成要素としてふるまっている。もっとも顕著なのは、『めまい』のバーナード・ハーマンの音楽ではないだろうか(日本映画に関してわたしはそれほど多くの例証をあげることはできないが、時として映像から離れて流れる黛敏郎の映画音楽は、ポスト・メロドラマの音楽の特徴を持っていると思う)(注)。

ポスト・メロドラマの以上のような特徴を踏まえると、映画史を従来とは異なる角度から見直すことができる。わたしがこうした分析に拘る理由もまさにこの点にある。

たとえばファスビンダーがサークから何を受け継いだのかを具体化するためには、たんにサークの作品の特質を振り返るだけでは不十分である。独自の表現手法を開拓しつつあるシネアストが、先行する作家や作品から直接影響されるということはないからだ。サークが完成に導いたメロドラマが、どのようにその殻を破って次の表現を獲得するか、ここを分析しておかなければ、サークとファスビンダーの結びつきを正しく把握することはできない。ファスビンダーは、メロドラマのそれにでなく、ポスト・メロドラマの系譜において見るべきなのである。

そして、先に整理したポスト・メロドラマの五つの特徴は、ヴェルナー・シュレーターの制作の出発点に位置づけられる――関係の執拗な追求、人物の持つ過剰な情熱の表現、まわり道、心理主義の廃棄、できごととしての音楽。この視点からの映画史の議論、そしてシュレーター論の試みは、わたしの知る限りまだだれもやっていない。パクっちゃだめよ。

注 Akatukiyami氏から、『女が階段を上る時』の黛敏郎、『乱れ雲』の武満徹の音楽が好例というご教示をいただいた。どちらも成瀬巳喜男の、わたしも大好きな作品である。『乱れ雲』の武満がすぐに思い浮かばなかったのは情けない。ご指摘、ありがとうございます。

 

 

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