『幕末太陽傳』の芦川いづみ

特集「恋する女優 芦川いづみ」(神保町シアター)は盛況のうちに幕を閉じた。わたしが今回の特集で最初に見たのは『風船』、最後に見たのは『東京マダムと大阪夫人』――ともに監督は川島雄三である。他に何か川島作品をやらなかったっけと思ってチラシを見直したら、この2作だけだった。中平康、蔵原惟繕、他それぞれおもしろいが、わたしが特に惹かれるのは川島作品である。映画の作りが優れているからだけでなく、芦川いづみをわたしが初めてスクリーンで見たのが、『幕末太陽傳』だったからだと思う。そこで昨夜は何回見たかわからないこの作品を、あらためてデジタルリマスター版のDVDで見た。

芦川は、品川遊郭の相模屋の女中役。居残りの佐平次(フランキー堺)と高杉晋作(石原裕次郎)を中心に進む物語において、初めはまったくの脇役である――女将に小言を言われたり、仕事の合間に大工の父親と二言三言会話したりする場面以外では、ほとんどアップにさえならず、炊事する後ろ姿が遠景に映ったり、使用人の食事時に黙々とご飯をよそって出したりするだけだ。トップを争う二人の女郎(南田洋子と左幸子)が客を手玉に取ったり、互いに張り合ったあげく中庭で取っ組み合いの喧嘩をしたりするのに比べると、全然話の前面には出てこない。何度となく見ているにもかかわらず、このまま芦川は脇役を慎ましく演じ通してしまうのではないかと思うほどだ。

むろんそれでも全然構わない。たとえば次第に存在感を増す佐平次をやっかんだ使用人たちが、裏でこそこそ焼きを入れる相談をしているところへ、芦川がひょいと顔を出して「ご飯ですよ」と声をかけるショットなど、(じっさいにやってはいないが)何度でも繰り返し視聴したい。この「ご飯ですよ」が素晴らしい理由は、彼女が使用人たちのヒソヒソ話などにはいっさい関心を寄せておらず、自分が炊いたご飯を早くみんなに食べてもらいたいという一事だけを考えていることがわかるところにある。表情も声もこれしかないという出来だ。こういう芦川いづみの一瞬のよさがわかるようになり、わたしもようやく芦川ファンとして一歩を踏み出しつつある。

しかしわたしの話は措き、川島監督がこのフィルムで芦川の存在を少しずつ際立たせていくみごとな手さばきへと話を進めたい。この女優さんには、主役を張っても岡田茉莉子や若尾文子のような迫力はない。それこそが彼女の魅力であることを完全に理解した上で、川島監督は彼女の初出演作以来、その持ち味を最大限に発揮させてきた。『東京マダムと大阪夫人』の芦川は引っ込み思案の少女の役で、ちょこんと立っているだけだったり、物思わしげな表情を見せているだけだったりする。ところがこのちょこんと立っているだけの姿を、川島監督が背後から引いて撮るとき、彼女の少し後ろにやった両腕と傾げた首とが少女歌劇の舞台で身につけたと思しき綺麗な絵になっている。また『風船』のラスト、彼女が浴衣で踊るショットは、多様な欲望の姿を並行して繋げていくこの作品のどぎつい一面とはまったく対照的で、このショットの有無によって作品のタッチががらりと変わってしまうほどの重要性を備えている。一言で言えば(わたしが一言で言うのだからろくでもない一言だが)、川島雄三はイノセンスの体現者として芦川いづみを発見したのだ(←どや)。

『幕末太陽傅』の芦川は、父の借金のかたに女中奉公に出されたのだが、その借金がさらに膨らんだ結果、ついに女郎として働かされることになる。それだけは嫌だと考えた彼女は一計を案じる。相模屋の馬鹿旦那と駆け落ちし、所帯を持ってほとぼりをさまそうというのである。これなら父親にも迷惑はかからず、相模屋の強突張り夫婦もさすがに文句は言えない。こうして終幕にかけて、物語の中心は佐平次から芦川いづみのほうへ傾斜していく。しかも芦川は女郎にはならず、幼なじみである馬鹿旦那と立派に所帯を持とうというのだから、彼女が体現すべきイノセンスが損なわれることもない。

こうした展開は編集を通じて周到に準備されている。出だしの芦川は台詞もなくちらりと姿を見せるだけだ(それでもわたしは「出たっ」と思うが、わたしの話は措こう)。しかし、フランキー堺と石原裕次郎の本筋が進行するとともに、少しずつ芦川と父の会話や馬鹿旦那とのツーショットが挿入されていき、彼女が相模屋で置かれている状況が観客にも飲み込めてくる。前半に主役のフランキー堺とのからみが一切ないのも編集の妙というべきだろう(なぜなら独立に進んできたフランキーの物語と芦川の物語の合流を、後半ようやく現れる二人のツーショットが示すからである)。かく伏線を張っておいて、女郎にされそうになる運命が、彼女自身の名案とそれをサポートする佐平次の手腕によって転換するラストへ進む。芦川いづみの見せ方としてこれ以上よい方法があるだろうか。結局彼女はラストで准主役の位置を占めるのだから。

今回の芦川いづみ特集のために選ばれた16作品の中でも、川島作品の印象が強く残る理由は、芦川をフィルムの構成要素としてどう活用すべきかをこの監督がよく知っていたからであろう。

 

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