芸術作品とそれが例示するもの

ネルソン・グッドマンは『世界制作の方法』所収の様式(style)に関する議論(第2章「様式の地位」、第4章「いつ藝術なのか」)において、芸術作品の様式を既存の二分法(様式と主題、形式と内容、「何」と「いかに」、内在的と外在的等)から解放する上で重要な視点を提示している。それはどんな芸術作品も、その様式の内に作品が参照している外部世界の例を含んでいる、という視点である。

たとえば小説の文体はそれが書かれた時代の多様な文体(新聞記事、法律、広告、手紙、SNS等々のそれ)のみならず、日常会話の言い回しを含む。その上その小説が「再現」している人物や風景も文体に劣らず様式の重要な構成要素であり、それらを描写する際、作品は外部世界からいくつかの特徴(ファッションや食生活他のスタイル、人物を取り巻く経済社会状況、街並みと自然の景観)を参照したり引用したりする。グッドマンはこうした外部世界の「例示」を芸術作品の特徴と認めることで、表現としての独立性と外在的な事柄の指示をともに様式の性格として把握できると主張する。「作品のいわゆる内在的な様式の特徴は、決して単に作品が所有するだけでなく、それが表明し、示し、例示するような属性のひとつである」(ちくま学芸文庫版、p. 67)。

このような議論が求められた理由の一つは、芸術作品の様式は表現の内在的特性であり、それは作品が「何を」ではなく、「いかに」表しているかを通して捉えられねばならない、といった俗流ニュー・クリティシズムが流布していたことにあった(『世界制作の方法』のもとになったテクストは1970年代に執筆されている)。芸術作品に対する純粋主義は当時批評の領域のみならず制作の場にも及んでおり、そうした立場に立つ者は、制作において作品が外部の何かの記号であることを拒絶できると主張していた(第4章に具体例が複数ある)。これに対してグッドマンは次のように言う。「純粋主義者のもっとも純粋な絵画でさえ、記号作用をおこなうのである。それはみずからの特性のうちにあるものを例示する。ところで、例示することはまぎれもなく象徴することである――例示は再現や表出と同じく、指示の一形式なのである。藝術作品はたとえ再現や表出の作用を免れていても、依然として記号なのであって、たとえ作品が象徴するものが事物や人間や感情ではなく、それがひけらかす形、色、肌理からなるあるパターンだとしても、この点にかわりはない。」(同、pp. 126-7)

「純粋」絵画に含まれる赤く塗られた面やナイフで引き裂かれた断面などは、それが何も「再現」していないとしても、そのまま外の世界で「赤色」や「断裂」の見本として通用する。逆に外の世界の路傍の石ころは、美術館に展示されることでそのまま作品となり得る。音楽の例をあげるなら、クラリネットで演奏された楽節はある音高、音程、リズム、またクラリネットという楽器の音色等の見本になる。こうした「例示」の性質は、どんなに純粋な芸術作品からも取り去ることはできないとグッドマンは言う。

グッドマンのこの議論にはいろいろ反論の余地がある。しかしいまはその検討には進まず、彼の議論を前提に次の問題を考えてみたい――芸術作品が何かの例示を含むとき、例示されたものが属している世界と芸術作品の関係はどうなっているのか。

この問いの趣旨は以下の通りである。芸術の様式が作品の属性と同時にそれ以外の存在の属性を含み得るとすれば、作品の内/外という区別は不明確である。よって例示を通して結びついている作品と非作品の関係を問い直す必要がある。

考察のための道具として、I・A・リチャーズがメタファーを定義する際に用いたコンテクストの概念を採用する(I. A. Richards, The Philosophy of Rhetoric , 1936)。リチャーズによれば、メタファーとは「異なるコンテクスト間のtransaction」である。それ自身の置かれているコンテクストと同時にそれとは異なるコンテクストを指示する表現をメタファーと呼ぶ。リチャーズが作り出した趣意(tenor)と媒体(medium)の対(コンテクストaにおける表現Aがコンテクストbにおける意味Bを指示する場合、Aが媒体、Bが趣意である)はよく知られている。しかしいまの議論ではあえてこの対を無視し、一つの表現が複数のコンテクストに属し得るという観点のみを借用する。芸術作品とそれが例示するものを別コンテクスト上の特性と見ることさえできれば、先の問いを検討するためには十分だからである。

『魔笛』序曲冒頭の和音は叡智界への扉を「再現」しているのかもしれないが、いまはそういう理念的な含意はないものとしよう。それでもこの和音は変ホ長調の主和音を例示している。両者のコンテクストの違いは以下の通りだ――前者は『魔笛』序曲という作品における和声進行の起点、後者は音程の一例。つまり、近代西洋音楽の秩序という一般的なコンテクスト内部に、その中で生み出されたある作品というより具体的なコンテクストが含まれている。これは先の石ころの事例――自然環境の一要素をそのまま美術作品とする――と、包含関係においては同様である。このように芸術作品とそれが例示するものとが、コンテクストを異にするとはいえ同一の世界に属するとみなせる場合を指摘できる。

しかし異なるコンテクストが、やや極端な言い方をすれば異なる世界に属していると言いたくなる例が存在する。

ここでは世界という用語をグッドマンにならってシンボル体系という意味で用いる。彼はたとえば芸術や宗教の世界観を自然科学のそれに還元することなどできず、これらは世界の別々のヴァージョンだという(彼が問題にするのは可能世界ではなく、現実世界の多元性である)。このような多元主義は受け入れがたいという人も多いだろうから、この先わたしが世界という語を使う際、抵抗を感じられるならカッシーラー風にシンボル体系と読み替えていただいてかまわない。

さて異なるコンテクストがもはや同一世界に属しているようには思えない例に移ろう。エーリッヒ・アウエルバッハが「比喩形象」や『ミメーシス』などで取り上げた比喩形象(figura)のある種の場合である。『ミメーシス』の、キリスト教による「様式混合」とそれを契機に生じた比喩形象的な旧約聖書解釈を取り上げる。アウエルバッハによれば、日常生活のリアリスティックな描写と、崇高あるいは深遠なものの描写を区別する古代叙事詩の様式は、イエスの言動を伝える新約の文体とは相容れないものだった。「キリストは英雄や王者としてではなく、最下層の生れの人間として登場し、彼の最初の弟子は漁夫と職人であって、彼はパレスティナの貧しき人々の住む所をめぐり歩いて、取税人、娼婦、病人、子供などと話を交わした。それにもかかわらず彼の言動はすべて他に類をみないほど高貴で威厳にみち、深い意味をもっている。キリストの言動を伝える文体は、古代の意味からは洗練された文体ではなく『漁夫の言葉』(sermo piscatorius)に他ならない。しかし最も優れた修辞的・悲劇的な文学作品にもまして、感動的であり、強い印象を与える言葉が記されている。なかでももっとも感動的なのはキリスト受難の物語である。王者の中の王者ともいうべき人物が賤しい犯罪者として扱われ、嘲笑され、唾を吐きかけられ、鞭打たれて十字架にかけられた物語が人々の心を強くとらえるようになるや否や、この物語は様式分化の美学を完全に打破してしまったのである。」(ちくま学芸文庫版上巻、p.132)。

アウエルバッハは続けて様式混合における比喩形象(figura)の役割を指摘する。いまの引用で見た、日常性と崇高の両立が生み出した言語様式の転換は、新約の物語から旧約のそれを捉え直す比喩形象的解釈と結びつく。比喩形象的解釈とは「甲乙二つの事件あるいは人物の間の関係を定め、甲はそれ自身のみならず乙を意味し、また乙は甲を包含する解釈であって、一つの比喩形象の甲乙二つの両極は時間的には離れているけれども、両者とも現実の事件または人物として時間の内部に存在している。両者は歴史的生命である去りゆく流れの中に含まれ、その相互関係の理解、精神の洞察(intellectus spiritualis)のみが精神的活動である。」(同上、p.134)

新約を通した旧約の比喩形象的解釈には、たとえばアダムの脇腹の傷から肉体をかたどった人類の母エヴァが生まれたように、キリストの脇腹の傷から精神をかたどった母なる教会が生まれた、といった読み換えがある。

一般に神話や聖典が語る言葉は何ごとかを再現するというより創造する。言語表現の様式としてもっとも極端な始原の表現である。したがって、その文体が他の言語表現を例示したり、そこで語られる物語の素材がコンテクストを換えて他のできごとの例となったりすることはほとんどない。しかし、アウエルバッハがあげた新約による様式混合および新約を通じた旧約の比喩形象的解釈という二つの事例では、聖典の文体が日常を写実的に描いた文体を例示し、旧約の物語が新約のできごとを例示している。

しかもここで起こっているのは世界のヴァージョンの変更である。聖典という例が極端なためにこんなことが起こるのだという批判は甘受する。しかし、芸術作品が自分の属している世界とは異なる世界の事物を例示し得るという点だけは明瞭に示せたはずである。つまり、作品とそれが例示するものとは同一世界の別のコンテクストに属するだけでなく、異なる世界に属することがある。

もちろん比喩形象のこの例だけでは不十分なので、この論点は今後も別の切り口から取り上げるつもりである。

 

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