中世/古代の並列構文に関するアウエルバッハの指摘

先にアウエルバッハ『ミメーシス』のfigura(比喩形象)概念に触れた。同書の最初の五章には、この他にも古典語(ラテン語、ギリシア語など)を学ぶ者にとって興味深い指摘がある。十一世紀の古フランス語による叙事詩、「ロランの歌」の並列構文に言及した箇所を引用する。

「古典語では、並列構文は低俗な文体とされている。それは書き言葉というよりも、話し言葉の文体であり、崇高というよりも、喜劇的な、リアリスティックな文体なのである。だが、それにもかかわらず、この詩の並列構文は、荘重体に属する。完文構造や修辞的文彩によらず、個々の語群をたがいに対置することによって生ずる力強さを頼みとする新しい荘重体である。しかし文節の並置による荘重体は、それ自体が西欧において全く目新しい文体だというわけではない。聖書の文体はこれと同じような特徴を備えている。ひとつここで、十七世紀の昔に、ボワローとユエの間で争われた「崇高性について」の議論、すなわち、「神が光あれといった。すると光があった」(dixitque Deus : fiat lux, et facta est lux〔「創世記」第一章三節〕)という文章の崇高性についての議論を思い出してみよう。「創世記」から引かれたこの文章の崇高性は、完文による雄渾な文章構成にあるのでもないし、高雅流麗な文彩にあるのでもない。内容の壮大さとまさに対照的な、文の驚くべき短さにあるのである。そして聴く者の心を畏怖の念でいっぱいにしてしまうような晦冥の感もまた、このような対照から生ずるのである。つまりこの文章にこのような荘重な気品を与えているのは、原因結果を表わす連結句を一切使わずに、目前に起こっている事柄をむき出しに直述する叙述のし方なのであって、そこにあるのは、対象の綜合的な判断や理解といったもののかわりに、およそ理解しようとする意志のともなわない、ただ驚きに見開かれた眼のみである。しかし武勲詩の場合は全く事情がちがう。畏るべき天地創造の謎と創造主、それと被造物である人間との関係などは武勲詩の主題とはならない。『ロランの歌』の主題は、ごくせまいものであって、そこに登場する人物たちが、宇宙の根本原理に疑いをもつなどということはあり得ないことなのである。」(『ミメーシス』第5章「ロランがフランク勢の殿軍に推挙された次第」、ちくま学芸文庫版上巻pp.194-5)

古典ラテン語黄金期の文章、特にキケロのそれを日頃読んでいる人はよくご存知のように、その構文は主節と従節をcum(時、理由、譲歩、対立などを表わす接続詞)に代表される連結語で結び、かつ各節の動詞を時制と法に厳格に従わせるとともに、関係詞、分詞、独立奪格、挿入句などの構成要素を補うことで、精確稠密な叙述を作るところに特色がある。叙事詩的な報告と描写ではなく、法廷や元老院における弁論、あるいは思索のための構文であり、先のアウエルバッハの引用中の「対象の綜合的な判断や理解」というのもキケロのラテン語が求めるものに他ならない。しかし論理的精確さを旨とするこのような構文は、世界に対する驚きあるいは崇高の感情をもたらすことはない。キケロの時代からそれぞれ数世紀以上古い/新しい文体(「創世記」/「ロランの歌」)に見られる、むしろ話し言葉に特徴的な並列構文は、むき出しの直述によってこうした感情を惹起するものだった。

キケロの文体を読み疲れた時には、バチカンの新ウルガータのサイトを訪れて「創世記」を読むのもよいかもしれない。

 

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