『女は二度生まれる』(1)

ローラ・モンテスを撮るオフュルスのカメラは残酷である。数知れない伝説とスキャンダルを背負って零落したローラは、自らの恋愛遍歴を描いたスペクタクルの主役をサーカスの舞台で演じる。自分自身の生涯を再現するだけではない。ダンスと命がけの空中ブランコを披露しさえする。男たちの欲望に答えることに費やされた彼女の前半生のエピソードは、団長の執拗な口上を通して、今度はサーカスの観客の欲望のまなざしのもとにさらけ出される。周到に演出されたスペクタクルの仕掛けに従ってローラが動き、踊り、空中を飛ぶとき、彼女がサーカス以前の人生において逃れることのできなかった運命、男たちの欲望の対象として翻弄される運命の純化されたかたちがそこに現れる。

ローラは体調を崩しており、医師は空中のショーを止める。しかし彼女は自分の「意志」で、あえて機械仕掛けのローラを演じ切ろうとする。フィルムの中で、彼女がブランコの最上段に向かって階段とはしごを昇るのを追うショットと、最上段からの墜落のイメージは、フラッシュバックで描き出される前半生のエピソードが、旅と亡命の連続であることに由来する水平移動(たとえば馬車、船、馬などによるそれ)を軸に描かれるのとは対照的だ。舞台上方からゆっくり下降する冒頭のトラヴェリングと呼応して、高みを目指してはしごを昇るローラの姿は、与えられた運命を自分のものとして取り返す彼女の挑戦を表現している。だがローラを追うカメラは一貫して冷徹だ。ローラを欲望の対象としか見ないサーカスの、あるいは実人生における他者の視線以上に、オフュルスのカメラは残酷である。

オフュルスが『ローラ・モンテス』(邦題:『歴史は女で作られる』)で実現した映像と音声の構成はいまに至るまで独自である。表現様式の完成という点で、このフィルムに匹敵するものはめったにない。ただし、他者の欲望の対象として生きることを余儀なくされた女が、零落そのものを自分の意志の行為として取り戻そうとするさまを鮮烈に描いたフィルムなら日本にもある。川島雄三『女は二度生まれる』(1961)である。製作年は『ローラ・モンテス』に遅れること6年。しかし、経験豊かな天才作家によるシネマスコープのカラー作品であり、かつそこで一人の女優(川島作品の主役は若尾文子)が徹底的に追いつめられ、宙空に放り出されるという点で、両作品を比べることは許されるだろう。

『女は二度生まれる』はそれ自体驚くべきフィルムである。だから『ローラ・モンテス』との比較などという試みはきわめて野暮だが、書き手の事情で後者がこのところ頭から離れず、よい映画を見るとついこれと比べてしまう。川島ファンには申し訳ないことである。オフュルスの遺作と比べてもけっしてひけをとらないというわたしの判断に免じて、なんとか大目に見ていただきたい。

本作の若尾文子は不見転芸者(みずてん:だれとでも寝るの意)である。この点でフランツ・リストやルートヴィヒ一世との間に浮名を流したローラ・モンテスとは比べものにならないなどとつまらないことを言う人もいるだろう。映画にとってそこはどうでもいい。肝心なのは、男の欲望の虜になることでしか生きられない女を搾取して成り立つ社会が存在するということだ。もちろん男女の役割分担に対する批判とこれを受けた社会の変革に応じて性的な搾取の仕組みにも変動が生じはしたけれども、いまに至るまで男性による女性の性的搾取の構造は基本的に変わっていない。映画は初期のころからずっとこの構造を視覚化してきた。

ただし、こういう主題を下手な作家が撮ると、たんなる人情物ができあがる。それでも見せる作品はあるけれども、主題と表現が取っ組み合う苛烈さには至らない。『ローラ・モンテス』や『女が二度生まれる』がすごいのは、たしかに欲望の生贄にされる女を主題化しているのに、性的搾取を批判するわけでも、女の没落をリアルに描くわけでもないということだ。この二作品はそれぞれの手法で、他者の欲望の対象として生きること、没落するということについて思考している。オフュルスが『ローラ・モンテス』でどのように思考したかについてはすでに述べたので、ここでは川島雄三の場合を論じることにしよう。いわゆるネタバレがある点はご容赦を願う(未見のかたで、川島作品に関心をお持ちなら、この先は読まないほうがよい)。

(お酒が飲みたくなったので、明日に続く)

 

カテゴリー: 川島雄三   パーマリンク

コメントは受け付けていません。