『女は二度生まれる』(2)

映画における思考とは、人物の台詞や物語を通して間接的に語られる作者の思想のことではなく、編集された映像と音声のテクスチュアとそれが生み出す意味作用のことである。映像と音声をそのように配列したのは制作者だから、当然それらの意味作用は制作者の思考を反映している。しかし、言語表現とは異なり、映像と音声が提示するものははるかに多義的であり、その多義性の中には、意味を読むことを拒む作用さえ含まれている。実際作り手は多くの場合映像と音声の編集を美的な判断に沿って行ない、観客も音楽を聴くときのように映画を見てかまわない。とはいえ映画の編集時に作り手が行う美的判断は、ミュージシャンがミキシングルームで発揮するそれと同様思考に他ならず、観客が映画を音楽に対するように見るときでも、自覚の有無はともかく、映像と音声の配列に促されて思考を迫られることはたしかである。

イメージ(編集された映像と音声)を意味づけるな、ある通りにそれを受けとめよという人は、それゆえ誤った前提に捉われている。イメージとは意味作用を行うものであるにもかかわらず、映画を前にして思考停止せよと言っているのだから。わたしたちが映画の思考を前にして自らも思考することは必然的である。問題があるとすれば、映画に思考を持ちこむことではなく、見る側の恣意的な思考を作品に押しつけることだ。

それゆえ映画の思考を論じる際に、わたしたちはまず映像と音声のテクスチュアに立ち返らねばならず、それらが何を意味し得るかという可能性の指摘に留まるべきである。これは制作者自身にも適用される基準であり、作り手が自分の意図通りにフィルムを編集し、その意図が観客にも伝わると考えるなら、それは傲慢である。だれであろうと映画の思考を自ら引き受けて思考しようとする者は、イメージが現に行っている意味作用を把握することに努めなければならない。

さて、川島雄三『女は二度生まれる』が没落する女をめぐる思考であるとは何を意味するのか。たんに没落する女を描くと言う場合とどう違うのか。思考を強調する理由は以下の通りである。

1) 映像と音声のテクスチュアの、描写からの独立。このフィルムのイメージ群は、性的搾取の社会構造によって零落していく女の「描写」という目的のためにだけ構成されてはいない。編集されたイメージ群が何かを描き出す手段という地位を超え、過剰な意味作用を行う場合、わたしはこれらが思考し、かつ観客に思考を促していると言う。

2) イメージの相互関係の自律的展開。イメージは単独で意味作用を行うとは限らない(映画の場合、むしろそういうケースは稀である)。どんなフィルムもイメージの相互関係を示すことで表現と意味の結びつきを明確にする。たとえばある人物の口ずさむメロディの反復は、映像と音楽を一つのパターンに統合し、俳優の顔のショットのみならず、メロディという記号によってもその人物を指示できるようにする。こうしたイメージの複合または統合によって生み出されるパターンを、さらに重ね合わせることで映画は成り立つ。しかし、こうしたイメージの相互関係(パターン)がたんに物語の展開を支える手段として用いられることも多い。これに対して『女は二度生まれる』では、優れた映画の常として、イメージの相互関係の形成に飛躍があり、ときには物語の進行とほとんどかかわりなく、互いに離れた箇所で予想外の結びつきを見せる。後で詳述する通り、本作における靖国神社の表象は、反復される菊の紋章、若尾文子が参拝したり、秘かに想いを寄せる人と出会ったりする境内の情景、そしてこれもまた繰り返される太鼓の響きなどを通して執拗なほどであるのに、そこに象徴性を認めることはむずかしい(そういう特性を読みこむことは、わたしには先に指摘した恣意的な解釈にあたると思われる)。むしろイメージの相互関係のこうした勝手な形成は、本作品を見る者に、作品の置かれた設定や物語とは別のことを(恣意的という意味ではない)考えるよう促す。このような特性をイメージ群が持つとき、わたしはイメージが自律的な意味作用を持ち、それ自体思考していると言う。

3) 作品のプロブレマティック(問題設定的)な性格。『ローラ・モンテス』と同じく、『女は二度生まれる』にも解決や決着がない。ある種の映画は断片的なイメージ群を散乱させるように見せかけておき、ラスト近くで一気にそれらを統合する。こうした行き方とは対照的に、『女は二度生まれる』はイメージ群の不統一を貫いている。ここから生じるのは、“フィルムは考え続ける”という性格、もっとまじめに言えば問題設定的な性格である。

以上を踏まえて、本作の思考する映画としての特性を具体的に見てみよう。

(つづく)

 

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