映画の思考について

先のエントリーでは、映画を構成するイメージ群の意味作用のうち、描写から独立し、複数イメージ相互の関係を通して自律的に作用したり、統合や集約に至ることなく問いを発し続けたりするもの、いわば意味作用の余剰分を「映画の思考」と呼んだ。この議論に対してはいくつかの反論が予想される。ここでそのうちの三点に答えておきたい。『女は二度生まれる』についての考察の中でこれをやると冗長なので、エントリーを分けることにした。

反論の第一は、意味作用を思考と呼ぶ必要はない、たんにこれこれのタイプの意味作用と呼ぶだけで十分という批判である。たとえば言語表現の場合、言葉の意味作用を思考とは言わない。思考とはあくまで人間の行ないであって、書物が思考するなどというのはナンセンスである。同様に、思考するのは映画の作り手と観客で、映画が思考するなどと言う必要はない。

回答:人間の思考は記号(言語や映像など)と不可分である。頭の中で記号の媒介なしに、または記号の模像を使って思念するだけでは思考とは言えない。たとえば言語による思考は、まとまった文章というかたちを取らなければ実現しない。よって書物は著者の思考の投影物でも相関者でもなく、思考そのものである。ゆえに言語の意味作用のうちのあるものを思考と呼ぶことには何の問題もない。極端に聞こえるかもしれないが、わたしには人間が思考の主体であると断言することはできない。わたしたちは記号の体系との相互作用を通して考える。このときわたしたちと記号の体系のどちらか一方を思考の主体と言うことができるだろうか? 同様に、映画における意味作用も、それが意味作用である限り作り手との間に相互作用を持つ。作り手は言語表現の場合と同じく、自分の意志によって表現の全体を統御することなどできない(イメージの自己展開に自分を従わせなければならない場合さえある)。そういう自律的なイメージは、制作者が用意した設定やシナリオを逃れて意味を生み出す。これを映画の思考と呼ぶことがナンセンスだとはわたしには思えない。

反論の第二は、イメージの意味作用の限界に関する批判である。言語による思考が定義、述定、推論、例示等の機能を備えているのに対して、映像と音声にできることはたかだか指示や例示、関係づけなどにすぎない。この程度の意味作用を思考と呼ぶのは不適当である。

回答:わたしは言語による思考の優位を否定しないが、言語以外の記号による思考を言語的思考に従属させる立場には与しない。言語が思考に与える論理性は他の何物にも代えがたい。とはいえわたしたちは言語によって思考する際にも、たえず映像や音声の力を借りている。では映像と音声の意味作用が思考にもたらす固有性にはどのようなものがあるのだろうか? 複数のイメージの関係づけによって可能になるアナロジーがその一つである。『2001年宇宙の旅』の冒頭、骨片を鈍器として使うことを発見した類人猿が歓喜のあまりこれを空高く投げ上げる。すると宙を舞う骨片のスローモーション映像はそのまま宇宙ステーションのショットに繋がれる。道具(技術)の進化に導かれたヒトの進化について、三つのショットが思考しているわけだ。この例では制作者の意図がほとんど一義的に表現されており、イメージの自律的な思考とまでは言えないという指摘があるかもしれない。しかし、重要なのは作り手の意図の有無ではなく、こういうイメージの並列によってアナロジーが実現できるということである。映画作家があるショットを別のショットと同一のアングルまたは同一の人物の配置で撮るのが正しいと感じるとき、そこに働いているのは経験に裏づけられた美的判断かもしれない。しかし、そうした判断が先に撮られたショットからの要請ではないとどうして言えるだろうか。映像には複数の命題を結びつける論理に匹敵するものはないが、変化、類似、コントラストなどにおいて言語にはできない表現が可能である。しかも制作者自身、このような表現を映像から教えられる。よって映画におけるこのような意味作用を、映画「の」思考と呼ぶことが不適切だとはわたしには思えない。

反論の最後は、イメージの意味作用の持つ複雑な性質に関するものである。言語記号と映画のイメージの相違点は、後者の二重性にある。つまり、人物や風景などの映像は被写体であると同時に記号なのである。たとえばスクリーンに映る若尾文子は被写体であり、演技者である。よって映像の意味作用は、若尾を捉えるカメラの映像と、演技をする(それ自体記号としての)若尾の映像からなる。このような意味作用を思考と呼ぶことは、事態をいたずらに不明確にする。むしろ映画のイメージは、一貫して記号としての被写体(人物や風景など)の描写であるというべきではないか。

回答:わたしは当初から映画のイメージを「編集された映像と音声」と呼んできた。つまり映画のイメージは、それ自身記号である人物や風景(第一構成)、それらを捉えるカメラや録音機材が作り出すイメージ(第二構成)、編集によるそれらの再構成(第三構成)からなる。したがって、映画のショットやシークエンスはそもそもたんなる描写ではあり得ず、必ず注釈の注釈(=第三構成)を含んでいる。ではなぜわたしは映画のイメージの意味作用について、描写から独立したものなどという言い方をしたのか。それはいま見たような三重の構成にもかかわらず、依然としてイメージを物語るための手段に留めておこうとする試みがあるからだ。つまり第二、第三構成を空気のような媒体にして、あたかも舞台上で演じられているかのように映像を見せるというやり方である。オフュルスや川島の作品にはこうした描写主義は皆無であり、第二構成と第三構成が言い方は悪いかもしれないがしゃしゃり出る。こういう意味作用は、描写主義との対比で思考主義と呼ばれていい。コメントの輻輳、第一構成と第二・第三構成の間の対立や葛藤を特徴とするからである。

めんどうくさい議論に見えるかもしれないけれども、これは『女は二度生まれる』を楽しく見るための下地づくりである。(残念ながら明日はエントリーを書く時間がない。続きは明後日アップする予定。)

 

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