『女は二度生まれる』(5)

3) 靖国神社

アヴァンタイトルで山村聰を驚かす太鼓は、その後も執拗に響く。タイトル直後の神社境内のショット群(斜めに断ち切られた菊の紋章のアップ、脚を引きずりながら参拝する傷痍軍人たちなど)の中には、すでに遺族会の参拝者を案内する藤巻潤の姿がある。後日の同じ境内における若尾文子と藤巻の会話(そこで彼は自分が九段会館の仕事を手伝っていること、親族が靖国に祀られていることを語る)の先取りである。冒頭、山村とのベッドシーンに靖国の表象を挟み、続いて映像で捉えられた境内に藤巻を登場させるこの構成は、後の藤巻の若尾に対する醜い仕打ちを考えれば十分意味を持っている。なぜなら、出会った当初は花街の風俗とは無縁で、むしろ若尾に好意を寄せているように見えた青年が、すぐに花街に適応し、彼女を商売道具として扱うことになるからである。すなわち本作の靖国の表象は、神楽坂の花柳界に出入りする金と性欲の奴隷たちの姿と密接に結ばれている。

ただし前に述べたように、わたしはこうした靖国の表象を何らかのシンボル(たとえば性的搾取の構造と戦争をもたらした経済社会体制の結合)とみなす立場を取らない。これはイメージ群の構成に触発された観客側の一解釈であり、すでに映画の思考を逸脱しているからである。むろん作品解釈の方法として象徴の読み込みを全面的に退けるつもりはないが、今わたしが試みているのは解釈ではなく、それに先立つイメージの構成と映画の思考過程を把握することである。

靖国の表象が花柳界に出入りする者の姿と結びついて登場する例をあと二つだけあげておこう。タイトル直後の境内のシークエンスの一コマに遺族会の記念撮影シーンがある。そこで着席しかけたちょび髭の男が、太鼓の音に驚いて飛び上がる。この男も実は若尾の客の一人であるが、彼女が嫌っている方の部類だ。山茶花究との温泉旅行から早々に引き上げてきた彼女が神社前で藤巻とばったり会い、しばらくふたりで境内を歩いた後置き屋に戻ると、女将は○○先生が会いたがっていると耳打ちする。藤巻との会話の直後だけに若尾は気乗り薄だ。さてここで靖国の太鼓が響く。実際にはこの音は神楽坂の置き屋の室内には届かないので(仮に聞こえたとしても不明瞭)、次の料亭のショットを先取りした仮想音である。例によってジャンプカット気味に繋がれる料亭の奥の間には、記念撮影で太鼓の響きに驚いたあのちょび髭がいて、ここでもやはり太鼓が響く。彼女はいやいやながらちょび髭を客に迎えたわけである。

このように執拗に反復される太鼓の止め打ちは、警察からの召喚状に動揺した置き屋の女将が靖国に参拝し、ここに祀られている亭主に泣き言を言うくだりである。女の身で女性の性的搾取を支えてきた女将が、売春防止法違反容疑を問われたところで響く太鼓は、冒頭の山村の買春場面のそれに呼応すると言ってよい。

映画の後半、若尾は神楽坂を離れる(山村の入院後、生活のために一時的にそこへ戻るものの、料亭で山茶花と藤巻を次々に振った彼女は花柳界から縁を切られる)。作品前半を彩っていた音声は不穏な太鼓の響きの他に、酔っぱらうと手がつけられなくなる芸者吟子のべらんめえ、花街の三味線、寿司職人の小粋な語りなど。後半、代わって音声の中心的地位を占めるのは若尾が披露する小唄であるが、わたしにはこれを論評する能力がない。

4) 散逸と放擲

視点を変えて、時系列に沿って若尾と男の関係を個別に見てみよう。彼女に惹かれて近づき、関係を継続しようとする男は身を滅ぼすことがわかる。これは花柳界の第二法則のようなもの(第一法則はもちろん熱力学と同じ)で、川島作品に限ったことではない。しかし、この作品が提示する山村聰と山茶花究、それに藤巻潤の映像は、自己の欲望を受け止めてくれる女を前にした男のみっともなさの探究という点で、きわめて高い水準に達している。

〈料亭での藤巻との再会〉

これに対してフランキー堺は、若尾の方から好意をもたれていたにもかかわらず、しばらく会わないうちに子持ちの女性と結婚し、黙って信州へ去ってしまう。幸いにして彼は難を逃れたというべきだろうか? そんなことはない。なぜなら彼は偶然(川島の偶然!)、上高地へ向かう列車内で彼女と再会してしまうからである。この場面の映像は、ラスト近くの解決されずに終わる断片であるから、物語の展開にはほとんど寄与しない。だからこそこういうイメージに、描写から独立した意味作用がはっきりと現れる。フランキーはこのシーンで若尾から目を離すことができず、かといって妻子の手前彼女と言葉を交わすこともできない。若尾の方もフランキーをじっと見つめ返している。危ない、実に危ない。

少年(高見国一)の場合は少し様子が異なる。彼のエピソードは三つしかないにもかかわらず、どれも重要である。二度目のエピソードでふたりは連れ込み宿に入り、進歩的な女子大生(江波杏子が魅力的に演じている)が若尾に教えたペッティングなるものを試す。二人の関係はこれだけなのだが、すでに山村の二号に収まっていた若尾は、「浮気」の証拠を彼に握られ、危うく無理心中の瀬戸際に追い込まれる(山村が出張のために用意したバッグからやおらナイフを引っ張り出し、渋谷の安アパートの畳に突き立てるショットは戯作調である)。ここで改心した彼女は、ラストまでもうけっして浮気しないばかりか、男との関係を持たない(山村もすぐ入院してしまい、結局生きては帰らない)。それまで関係した男たちの多くを散逸に導いてきた彼女は、今度は自分自身の散逸へ向かう。

高見との第三のエピソードは、そのままラストのシークエンスに繋がる(フランキーとその妻子に出会うのもこのシークエンスにおいてである)。少年が雪の積もった山を見たがっていたのを思い出した若尾は、たまたま映画館で再会した彼を連れて夜行列車に乗ってしまうのである。一夜明けて二人は終着駅・島々(今は存在しない)に着く。彼女は上高地行きの切符を一枚だけ買い、少年を一人でバスに乗せる。このとき彼女は山村からプレゼントされた時計を少年に与えてしまう。登山やハイキングに向かう客がすべてバスで去り、島々駅の待合室にたった一人残った若尾の姿を、カメラは固定ロングショットに収め、十数秒そのままにして、再びアップにすることなくエンドマークに繋ぐ。

〈島々駅〉

ラストシーンでポツンと座っている若尾の姿からエンドマークへのこのジャンプには驚かされる(エンドマークそのものがこれほどの衝撃をもたらす例をわたしは知らない)。川島という人は、フィルムを構成するすべての記号を活用し尽くさなければ気が済まないのかもしれない。

若尾文子が宙空に放り出されるラストのロングショットには、描写からの独立、他のイメージ群との自律的な関係形成、そして問いの提示という、先に映画の思考と呼んだ特徴が揃っている。自分に惹きつけられた他者を散逸させると同時に自分自身を散逸させ、かつて属した小世界を後にしたものの行きつく場所はなく、自分の時間さえひとに与えて一人無人の地に放擲される――作品のすべてのイメージがこうした散逸と放擲の、言い換えれば没落の思考を形成し、ラストのロングショットに収斂している。

〈終〉

 

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