『ジャンヌ・ディールマン』(1975)

シャンタル・アンヌ・アケルマンの『ジャンヌ・ディールマン』(1975)はデュラスの『インディア・ソング』(1975)と並ぶ、デルフィーヌ・セイリグの代表作である。どちらの作品もいまなお現代映画を代表する傑作だが、『ジャンヌ・ディールマン』を撮ったとき、アケルマンは24歳だった。

ほとんど無名といってよい監督が、アラン・レネ、ジョゼフ・ロージー、ルイス・ブニュエルらとともに優れた仕事を積み重ねてきたデルフィーヌ・セイリグを、どんなシネアストもやったことのない方法で徹底的に撮り尽くす。シングルマザーの日常の動作――料理、一人息子との食事、後片付け、入浴、編み物、靴磨き、買い物等々――と、少しずつこれらの反復に紛れ込む些細な失敗を、執拗なまでに長回しのカメラの前で演じるという、大女優だからこそしんどい要求に答えたセイリグはすごい。しかし、もっとすごいのはセイリグをこういうふうにカメラの前に立たせたアケルマンの自作に寄せる確信である。同じアパルトマン内で繰り返される、孤独で、ほとんどセリフのないルーティーン・ワークの長回しを200分のフィルムに編集するためには、リハーサルと取り直しに膨大な時間を要するだけでなく、演じる側は同じ動作を文字通り何十回も繰り返さなければならない。こういう要求をデルフィーヌ・セイリグのようなキャリアの持ち主に新人監督が突きつける上で不可欠なのは、監督が自作について抱いている構想に揺らぎがなく、かつその内容をスタッフとキャストに向けて明確に伝えられるということだ。それがどれほど見事に達成されたかは、作品を見れば明らかである。いっさい妥協のないショットと編集を通して、他のどんなフィルムにおいても見ることのできないデルフィーヌ・セイリグが実現されている。

アパルトマンの廊下とエレベーター、そして室内の美術(特に色彩設計)と、これらを固定で捉えるカメラのアングル(画面のサイズはヴィスタ)はクールで無駄がない。ただしそこでセイリグが見せる動作は、ルーティーン・ワークを生真面目に遂行しているため、しばしばユーモラスである(入浴中耳たぶの後ろまでていねいに洗ったり、ポットのお湯が沸くまで数分待ったり、ナイフとフォークをタオルで拭きながらキッチンの机の引き出しに並べたりするのを見守るわたしたち観客は、あまり親しくない女性の家に招かれ、その不思議に几帳面な行動を所在なくながめているような気分になる)。心理学的に彼女がどのようなタイプに分類されるのかといった話はやめておこう。ただ少なくとも彼女の動作が一定の型を守っているらしいことはたしかである。連続する三日間のできごとを捉えたこの作品の中で、たとえば料理の手順、息子とのディナーにおける皿の出し方、食後の散歩、就寝の支度、起床直後のコーヒーの淹れ方、息子のベッドサイドのヒーターの点け方、靴磨き等々がほぼ同じ工程に従っているからだ。

二日目の昼前に来客を知らせるブザーが鳴って、ジャンヌが赤ちゃんを収めた籠を受け取るシーンは、何か新しいできごとの始まりなのかと思わせる。ところが彼女はほとんどこの赤ちゃんに関心を寄せずに家事を続けるので、ベビーシッターもまたルーティーンの一つだとわかる。三日目に彼女が赤ちゃんを抱きあげることのほうが、そうしたルーティーンの乱れであり不具合なのである。何の予備知識もなくこのフィルムを見る者は、一日目の終わりにジャンヌがベッドルームの灯りを消し、ブラックアウトした画面に「一日目の終わり」という字幕が出たときに、「おっと。これはもしかしたらこのまま行くな」という予感を抱くだろう。だから二日目の赤ちゃんの登場は「新しい展開だ!」という儚い期待を持たせるが、そうは問屋が卸さないのである。この同じ点についてかんじんの話題に入らなければならない時が来た。ジャンヌ・ディールマンはブリュッセル1080、コメルス通り23の自宅で私娼を営んでおり、この作品中の三日間、毎日一人の男を相手にする。彼女のこの行動は家事の一環であり、まったくのルーティーン・ワークだ。映画は何も説明しないけれども、おそらく彼女は毎日のように、一日一人だけ客を迎え入れている。男を迎える仕方も他の家事の場合同様一定のルールに従っていて、たとえば客と寝るのはベッドカバーに重ねて敷いた一枚のバスタオルの上である(ベッドカバーを取り去ってシーツの上で行為に及ぶことは避けられる)。客を帰す際には一度必ず衣服を整え、玄関で代価を受け取ってからバスルームに行き、ていねいに入浴する。私娼に関するこうした描写は繰り返される日常の一コマであり、わたしたちは赤ちゃんが登場したときと同じく、客を迎えるジャンヌの姿にドラマティックな何かを期待してはいけない。おそらく事態に変化はなく、何事も起こらずに映画はとりあえずの終幕を迎えるはずなのである。

しかし、二日目に客を迎えている間、いつもの手順で火にかけられていたポテトがどういうわけか焦げてしまったり、届けられた赤ちゃんを(たぶん)珍しく抱きあげたりといった反復の不具合が生じ始めるのは、何かの予兆ではないのだろうか。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ふざけて書いているのではない(わたしの文章はどこまでが冗談でどこからが本気かわかりにくいらしいので注記した)。『ジャンヌ・ディールマン』について何かもっともらしいことをコメントしたいなら、日常の単調な反復に忍び込む些細な乱れと、その結果生じるカタストロフ、とでも言えばよい。しかし、この作品がじっさいに表現しているのは、あくまで反復とその不具合だけである。どんなに几帳面なルールに従って繰り返される行動も厳密に遂行されるわけにはいかない。三日目のボタン探しのエピソード(たぶんお気に入りのコートのボタンが一つ取れてしまっているのに気づいたジャンヌは服飾材料の店を数軒回るが、求める品は見つからない)のように、不測の事態はいつでも起こりうるからである。だとすれば、三日目に届いたプレゼントを開封するために用意した鋏をうっかりベッドルームに放置してしまったことも、その後迎えた客との性交で珍しくオーガズムに達してしまったことも、日常の動作の反復に加わった些細な不都合の一種であり、それらをカタストロフ扱いするのはおおげさである。

『ジャンヌ・ディールマン』の面白さは、デルフィーヌ・セイリグの反復動作とその失敗を、それ自体繰り返される見事なカメラアングルと構図において見続けられる点にある。ラストのできごととその後のセイリグの長回しを本作品の構成上の要と見る立場が間違いだとは言わないが、このフィルムの素晴らしさはそんな見方をしなくても容易に捉えられる。

映像のみならず音声の編集が凝りに凝っている。クライテリオンのDVDで視聴されるなら、ヘッドフォンを使用されることを奨める(冒頭のタイトルに重なる音声がすでに魅力的である)。

そしてこの作品のもう一つの魅力は、じっさいのカットとシンクロナイズしたりしなかったりする室内の照明の細かいスイッチにある(ジャンヌも息子もこまめに照明を切る)。あたかもいくつかの主題が反復とともに変奏されたり、対位法的に組み合わされたりする音楽を聴くようにこの映画を楽しむことができるだろう。そのとき照明のスイッチは休止符に相当する。

 

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