第十日(鏡を打ち砕く)

陰謀は組織の構成メンバーを秘かに結びつける言葉と身振りの同一性を拠りどころにして進められる。彼らは多くの概念(時には理念)を共有し、仲間内では同様の口調で話す。未知のメンバー同士が連帯を確認するには合言葉が必要であり、それは時として身振りで表現される。一方彼らは組織の外部の者に対しては一級の演技者たらねばならない。油断は許されず、片時も他者であることをやめてはならない。つまり、ここでは常に他者を演じるということが組織のメンバーの同一性を支えるわけだ。

組織の内部では互いに言葉と身振りを共有し、外部では他者になりきる。どちらの場合にも鏡像関係が認められる。組織の内部においては同じ言葉、同じ行為への忠誠が求められ、外部においては他者を模倣しなければならないのだから。陰謀の舞台は鏡の国である。

それゆえある種の演劇は陰謀めいている。というよりも陰謀そのものである――長期間繰り返される入念なトレーニングとリハーサル、許されないセリフのとちりと仕草の失敗、そしてついに観客の前で明かされる恐るべき秘密の全容。メンバーは、組織内では互いを鏡にして共通の言葉と身振りを作り、観客に対しては他者の役割を演じきる。文字通りの「舞台」、演劇の舞台もやはり鏡の国だ。

陰謀に立ち向かう方法はいくつか考えられる。もっともよく採用されているのは、同志を装って組織に潜入することだろう。つまり、組織のメンバーが秘かに行っているのと同じ手法を用いて彼らを騙すのだ。ただしこういう潜入者が組織内部で彼らを忠実に模倣するとき、彼(彼女)は他者を演じている。つまり見せかけの鏡像を作るのである。この方法に伴う危険は、二重スパイ、三重スパイの事例から理解できる。見せかけの鏡像が本物になり、演技が非演技になるというわけだ。鏡像に鏡を向けたところで鏡の国の風景は何も変わらない。

もう一つの方法は徹底的な観察によって彼らの化けの皮を剥ぐことだ。彼らが他者を演じていることを証明し、その正体を暴き出すには、穴が開くほど凝視する必要がある。こうして彼らが拠りどころにしている鏡、それを通して彼らが他者たりえている鏡を打ち壊さなければならない。先に見た第一の方法、組織の一員になりきる潜入捜査は、陰謀に対抗する側がそれに加担する側に同一化することを通じて鏡を温存する。これに対して第二の方法は鏡の破壊を目指す。

演劇がときとして陰謀そのものであるのに対して、映画は、あるときはそうした陰謀に潜入し、あるときは陰謀を進めるメンバーの化けの皮を剥ぐ。後者の場合、カメラは演技者を見据え、突き放し、その姿を捕捉しようと待ち構えている。演技者は他者の瞳さえ鏡に仕立てることができるけれども、カメラは鏡にはなり得ない。なぜならそれは被写体を映さずに写すからである。カメラは狙撃手(shooter)である。カメラのこのような性格にもかかわらず、たしかに映画が演劇に接近することがある。自ら優れた演技者としてカメラの前に立った映画監督、たとえばオーソン・ウェルズやジョン・カサヴェテスを想起せよ。しかしこの二人の作品はどんなに演劇に接近しているときでも、やはりフィルムに他ならない。その理由は、彼らがともに被写体としての自分の身体を見据え、突き放し、捕捉する目を持っていたことにある。映画に自撮りなどという行為はない。

映画が鏡を打ち砕くとは、何を意味するのだろうか。俳優が自分を何かの鏡像に仕立てるのを止め、自分の身振りを始めるさまを捉えることである。ジャック・リヴェット “OUT1”の基本的な手法は台本なしの長回しであり、各場面の演技者たちは、リハーサルをするトマのグループのメンバーを除いて、演じるべき役割を事前にほとんど与えられていない(もちろん撮影前にリヴェットはその場面の意味や、動きとセリフの概要を伝えてはいる)。彼らはたしかに演じているのだが、それは架空の他者を現実化するという意味での演技ではなく、カメラの注視の前でカメラに抵抗する演技であり、この抵抗において彼(彼女)自身なのである。

エピソード8のサラとエミリの長回しは、第一に二人の非対称性(サラはエミリを冷たく凝視し続け、エミリはサラを見返すことなくカメラに向かう)、第二に両者がカメラに提示するもの(サラはその凝視だけを、エミリはサラの凝視に対抗する表情だけを延々と示し続ける)によって、鏡像を破壊している。二人は視線を交差させることも対話らしい対話を成り立たせることもなく、あたかも別々の空間に属するかのようにそこにいる。トマのグループが採用していた鏡像の練習とは対照的に、この二人は互いに相手を映し出すことはなく、したがって他者という鏡を通じて自分の役割を導き出すこともない。カメラは最初、鏡の中の二人を捉えるが、その後パンしてエミリを単独で撮る(つまりこのショットの後半、サラの姿は見えない)。文字通り鏡が打ち壊されるのである。

サラとエミリ(エピソード8)

この作品には鏡のショットがたくさんある(トマとベアトリスの鏡像練習のシーンが、鏡に映った二人の姿から始まることは前に指摘した(第七日)。こちらはいま見たサラとエミリの長回しとは反対に、演劇における鏡像関係――他の俳優の姿を模倣しつつ自分が演じるべき役割を獲得すること――を捉えたショットである)。

鏡に映ったトマたちの鏡像練習(エピソード1)

もう一つだけ鏡像の例をあげておこう。フレデリック(ジュリエット・ベルト)が初めて登場する場面である。カフェの壁の鏡に二人の人物がどちらもこちらを向いて映っている。左手前に男、右斜め後ろにフレデリックである。男は自分を見つめる彼女の鏡の中の視線に気づき、自分も鏡を通して彼女を見返す。「何か?」と問う男に、自分が描いた彼の似顔絵を鏡に向けた彼女は、続いて男に両手を上げてみてと言う。彼が上げた左手の薬指には指輪が見える。この間カメラはずっと鏡像を撮り続けており、会話している二人も直接視線を交わさない。だがフレデリックの意図(彼女は出会った男たちから金をくすねて暮らしている)を察した男は、次の瞬間突然後ろを振り返ってじかに彼女を見据える。ここで一挙に鏡像の安定感は失われ、カットが入ると鏡の外の二人を後方から捉えるショット(つまりフレデリックの背中と振り返った男の顔を見るショット)になる。この場面の撮影法も、鏡を空間の屈折や歪みのために配したり、心理描写の道具にしたりする手法とは無縁であり、むしろ打ち壊すために鏡像を提示しているように見える。

鏡の中のフレデリックと男(エピソード1)

さて、リリとエミリがかつての仲間から距離を置き、「グループ」の陰謀に対抗していることはすでに述べた。コランもこちらの仲間になろうとしている。彼らはそれぞれのやり方で「グループ」の秘密を暴こうとするが、この作品の中では結局陰謀の全容(そういったものがあればだが)は明らかにならない(ワロックを再訪したコランは、「十三人組の物語はファンタジーだ」と言う)。しかし、こういう物語の結末とは別に、“OUT1 Noli me tangere”というフィルムそのものが、上述の通り陰謀の舞台である鏡の国の破壊の仕方を明らかにしていることに、わたしたちは注目すべきである。

陰謀に立ち向かう方法には先に言及しなかった第三のそれがある。マルクス兄弟とジャック・タチ、それに本作のリリが採ったやり方だ――陰謀の進行に介入し、不規則な言葉と行動でそれを台無しにするのである。リリの「演出」、演劇の放棄、そして突然の失踪は陰謀をぶち壊す上できわめて効果的だ。彼女こそ鏡の国の秩序攪乱者アリスである。リヴェットにとって、現代の十三人組の実態などというのは本質的な問題ではない。この作品が実践したプロジェクトはもっと壮大である。つまり、陰謀に立ち向かう方法とは何かを、フィルムを通して明らかにしてみせたのである。

Jacques Rivette

 

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